112人が本棚に入れています
本棚に追加
正智と一緒のデートに加わって、屈託なく笑ったり話したりする兄の様な正規の思い出を。十八歳の誕生日に、桐子の指に百地家の指輪を嵌めてくれた後で、そっと抱き締められて。くすぐったいけど幸せだった私を。
今、この女が壊した。
「貴女はお名前を、陽子さんと言うのね」
桐子が呟いた。
殆ど失われたあの日の記憶の中で、少しだけ憶えている正規の声。あの時、正規が呼んでいた名前だけは、決して忘れられなかった。
「陽子」、それがあの時。正規の声が呼んだ名前だった。
深い悲しみが、沈んだ澱の様に心に重い苦みを与える。
「そのダイヤの指輪は、如何なさったの」
聞きたくも無い返事を求めて、勝手に言葉が口をついて出てくる。
「チェックメイト」、と陽子は心の中で喜びの声を上げた。
「愛の証だと言って、ワタシを抱いた後で正規が嵌めてくれたの」
嘘は、言ってない・・・四年前の事だけど、そこは内緒だ。
桐子の中で何か大切なものが壊れて、心に突き刺さった。傷口から温かな思いが、流れ去って行くのが解る。
代わりに、冷たいものが身体中に拡がった。
桐子の視線が冷たく変化する様子に、陽子は怯えを感じた。
「この子供には、手を出すべきじゃ無かったかも」、ふと後悔の念に駆られた陽子だったが。別の記憶がその思いを押しのけて浮上した。
「こんな風に、冷たい鋼の様な眼の光を以前にどこかで見た事がある。何処で見たのかしら」、苛立ちが心をかすめる。
その時だった。
「私との婚約を如何するか決めるのは、正規さんであって。私では無いと言っておくわ」、冷たい桐子の声が耳に響いた。
「さようなら。陽子さん」
レシートを手に取ると支払いを済ませ、カフェテリアを出て行ってしまった。その桐子の後ろ姿を、陽子は呆然と見送った。
最初のコメントを投稿しよう!