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1・
二十九歳の正親は。陽子を失って、二ヵ月が過ぎ去ろうとしていたあの日。
紅葉に燃える秋の山中にいた。
恋人と親友を、一瞬にして失った。深い失意に沈んだ二ヵ月が過ぎて尚、苦しい心を抱えて悶えるような日々を送る正規がいる。
最近では仕事に身が入らず、何事にも集中できず。経営最高責任者としても機能不良を起こしている。心も体も休養を求めて、軋るような日々が続いていた。
山間のホテルに部屋を取った次の日、彼は一人で山へトレッキングに出掛けていった。トレッキングは大学院生だった頃以来だが、自然の山懐に抱かれ、傷付いた心を秋の静寂に包まれて静かに癒されたいと、心から切望した。
山々の紅葉に染まった幽玄の美が、優しく心に沁みて来るようだった。
今でも陽子を愛しているのか、それとも恋する気持ちにただ酔っていただけなのか?・・正規にも本当の処は如何だったのか、もう良く分から無くなっていた。
ただ・・思いも掛けない時に。抱き寄せて胸に抱いた陽子の身体の温もりが不意に蘇って・・彼を苦しめる。
そんな自分の想いに深く捕らわれ過ぎていた正規は、山の怖さをうっかり忘れていた。「山に長居し過ぎた」と彼が気付いた時には既に、霧に巻かれ、道に迷っていたのだ。
ただ寒くて。冷たく凍えた手足の感覚が遠のき、襲い来る鈍い痛みに怯えた。
「この儘、凍死するのか」
「何とか助かりたい」、と心の中で強く念じた。
その時だ。いきなり霧が流れて、少しの間だけ眺望が開けた。
遠くの丘の上に、家の光が見えたのだ。
正規は懸命に、灯りに向かって歩いた。
それは果てしない歩みに思えて、言いようもなく辛かった。
「もう・・これ以上は歩けない」、と思った。
やっと家の灯りに手の届きそうな処まで辿り着いた、と気付いた時には。彼の意識はすでに寒さのために朦朧としていた。
ドアを引っ掻く様にノックしたのを、薄れゆく意識の底で覚えている。
助けを求めながら。ドアに寄り掛かると、意識を失って頽れた。
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