第03章 不穏な芳香

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 啓吾の体重でつぶされたカサブランカ。むせるほどの強い芳香を撒き散らしている。  いくらしたと思ってるんだよ、と啓吾は思った。 「聞いてよ。じつは今日、紹――」  気にせずに話を続けようとする花穂にかっとなった。 「その前に謝ったらどうなんだよ。せっかく買ってきた花がつぶれただろ!」  啓吾は声を荒げた。  花穂がびくりと身体を震わせる。笑顔がかき消えた。 「ごめん」  湿り気のある沈黙が流れた。  ちぎれたカサブランカの花弁に、啓吾は視線を落とした。  気まずい。せっかく今日はお祝いしようと思っていたのに。 「まあ、あれだ。花穂が家にいたってことは、花穂の領域に入っちゃった俺の罰ゲームだな。仕方ない。今日の家事は俺がするよ」  啓吾はつとめて明るくいった。  だが花穂は、いっそう顔をこわばらせた。 「もうやめようよ」 「なに?」 「この縄張り生活」 「どうして」  啓吾はいらいらしたまま訊いた。  じつは、この話題で何度か険悪なムードになったことがある。 「ばかばかしいよ。同居しているのに部屋を分けるなんてさ」 「どうしたんだよ、いまさら。最初は花穂のほうが乗り気だったじゃないか」 「それはそうだけど、こんなに長く続くなんて思っていなかったんだもん」  長いまつげの瞳がうるんでいた。 「啓ちゃんも雰囲気が変わっちゃうし。淋しいよ」  驚いた。こんな弱音を吐くのをみるのははじめてだった。  妻はもうやめたがっている。だが、啓吾はまだ続けたかった。  せっかく営業成績も上向いてきたのに。 「まだやめないよ」 「じゃあいつまで続けるの?」  回答に詰まった。 「しばらくは……」  妻がうつむいた。 「わかった」  消え入りそうな声が響く。  妻は自分の領域をとおって、とぼとぼと寝室に消えていった。  啓吾はなにも声をかけられなかった。  その日を境に、妻との会話は激減した。  その悪影響は仕事にも如実に現れた。
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