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啓吾の体重でつぶされたカサブランカ。むせるほどの強い芳香を撒き散らしている。
いくらしたと思ってるんだよ、と啓吾は思った。
「聞いてよ。じつは今日、紹――」
気にせずに話を続けようとする花穂にかっとなった。
「その前に謝ったらどうなんだよ。せっかく買ってきた花がつぶれただろ!」
啓吾は声を荒げた。
花穂がびくりと身体を震わせる。笑顔がかき消えた。
「ごめん」
湿り気のある沈黙が流れた。
ちぎれたカサブランカの花弁に、啓吾は視線を落とした。
気まずい。せっかく今日はお祝いしようと思っていたのに。
「まあ、あれだ。花穂が家にいたってことは、花穂の領域に入っちゃった俺の罰ゲームだな。仕方ない。今日の家事は俺がするよ」
啓吾はつとめて明るくいった。
だが花穂は、いっそう顔をこわばらせた。
「もうやめようよ」
「なに?」
「この縄張り生活」
「どうして」
啓吾はいらいらしたまま訊いた。
じつは、この話題で何度か険悪なムードになったことがある。
「ばかばかしいよ。同居しているのに部屋を分けるなんてさ」
「どうしたんだよ、いまさら。最初は花穂のほうが乗り気だったじゃないか」
「それはそうだけど、こんなに長く続くなんて思っていなかったんだもん」
長いまつげの瞳がうるんでいた。
「啓ちゃんも雰囲気が変わっちゃうし。淋しいよ」
驚いた。こんな弱音を吐くのをみるのははじめてだった。
妻はもうやめたがっている。だが、啓吾はまだ続けたかった。
せっかく営業成績も上向いてきたのに。
「まだやめないよ」
「じゃあいつまで続けるの?」
回答に詰まった。
「しばらくは……」
妻がうつむいた。
「わかった」
消え入りそうな声が響く。
妻は自分の領域をとおって、とぼとぼと寝室に消えていった。
啓吾はなにも声をかけられなかった。
その日を境に、妻との会話は激減した。
その悪影響は仕事にも如実に現れた。
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