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中村さんが高校生だったころ、九十年代の話だ。
当時、中村さんの住む町には高校がなく、近所の友人らもみな、そろって隣市までバス通学をしていた。
湾に沿って走るバスの車窓からは、白亜の豪邸が見える。海にむかって建つその家は、建築やデザイン関係の雑誌にも載った家だとかで、地元でも有名だった。
ふだんは何気なく通り過ぎるだけだったが、あるとき、豪邸の二階の窓に若い女性を見かけた。長い髪は後ろにくくり、額は秀でていた。まるでピアノを弾くようにうつむきがちにして、腕をしならせているその姿は印象的で、バスが通り過ぎる一瞬のことだったのに、はっきりと中村さんの脳裏に残ったという。
その晩のことだ。豪邸から火が出た。小さな町は大騒ぎになった。
中村さんは火事の報を聞き、あの美しい女性は無事だろうかと気が気でなかった。親に尋ねてはみたものの、死人がなかったことと、豪邸の所有者には娘がないことしかわからなかった。
人の噂も七十五日。日が経つうちに、豪邸の火事はすっかり忘れ去られ、跡地は何事もなかったかのように整地された。中村さんも女性のことを忘れていたが、たまたまテレビで地元を舞台とした旅番組をみていて、タレントの背景になった古い民家の窓辺に、あの女性の姿を見つけた。一瞬だったが、あの美しい横顔は見間違いようがなかった。
生きていたのだ。中村さんはホッとした。
──しかし、話はこれで終わらなかった。
数日後、中村さんは学校の帰りにいつもどおりバスを降り、家の近所の三叉路で友人たちと別れた。ひとりになって歩いているとき、違和感があって、何気なく道路脇の空き地を見やった。
中村さんは、驚いた。空き地の真ん中に、あの女性がいるではないか。しかし、しばらく見入るうちに、その異常さに気が付いた。
女性は椅子もないのに、宙に優雅に腰かけ、ありもしないピアノを奏でるように、一心に腕を動かしていた。
中村さんは逃げるように家に帰り、母を連れて戻ったが、そのときには空き地には誰もいなくなっていた。
翌日、空き地でボヤ騒ぎがあった。中村さんは女性を初めに見かけたあの豪邸を思い起こして怖くなったが、インターネットも一般的ではない時代のことだ。テレビに映ったあの民家がどうなったかを知る術は、一介の高校生には思いつかなかった。
火事と女性との関連は、ついにわからずじまいだった。
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