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遠く、さざ波の音が聴こえる。 耳を澄まさないと、ここまでは届かない。 そんなに遠くはなくても、騒がしい音ではけしてない。 生涯を、この小さな町で過ごした。 港ではない。だから、停泊船も漁船もいない。 ただ、少し足をはこぶと海が見えるだけの場所。 家の周りは生い茂る草木で蔽われて、まるで隠れ家のよう。 幼い頃は、庭の隣の大きなアスナロの木が嫌いだったことを思い出す。 独特の香りは鼻につき、そのころころとした葉っぱは、どうにも気持ちが悪かった。 それが、今はこんなにも愛おしい。 生涯を振り返るとき、この香りはなくてはならなかったから。 ずっと、両親と祖父母と過ごしたこの家は、ひとり、またひとりと気配を消して。 夫がここを気に入って、こちらの家に来てくれたけれど、その夫も先に旅立って。 鳥のさえずりがメロディを奏でれば、朝がやってくる。 陽の光が、私をこの世に引きとめるように目覚めを誘う。 娘がたまに様子を見に来て世話を焼いてくれるお陰で、生活に困ることもない。 「あらあら」 午後たまにやってくる、幸せを運ぶカブの音は、もうそれだけで心を浮き立たせる。 “おばあちゃんへ” その文字は、小学生に上がった孫から不器用にしたためられたもの。 写真付きで送られてくるそれは、私の生きてきた足跡を辿るように生まれた命のかたち。 争い、いがみ合うことのないよう、夫と育んだ愛のかたち。その先。 “またあそんでね” まだ拙い言葉でも、私を慕ってくれていることが分かる文字。 息子夫婦は遠くに居を構えて久しいというのに、ことあるごとに我が家を訪れてくれる。 そして、孫の顔を見せに来てくれる。 なんて、素敵なことだろう。 子供にお金を残すものではない、と夫が言って。 だから、我が家は生きられればいいようなほどしか蓄えてもこなかった。 その分、物よりも思い出を作れるように、たくさんの場所に連れて行って。 いつしか、たくさんの人たちが私の周りに溢れていた。 近所というには少しばかり遠い、一軒一軒が離れたところにしか建てられないような場所だからこそ、この辺一帯の人たちはそれを大切にする。 桃源郷のようなこの土地。 夢のような。 夢の――…
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