波女史

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その晩、あなたは私をお抱きになって、私には、その事もとても幸せでした。何も与えられないなんて、嘘。あなたが私を満たしてくれる。あなたはどうやら、初めてではなさそうでした。今まで何人の人に、夢を見せてきたのでしょう。そうして私は、あなたにとって何人目の女だったのでしょうか。 次の日の朝、あなたは海に飛び込みました。 流行りの画家が自殺したという事で、世間はだいぶセンセーショナルにあなたの事を書きました。私はのんきに寝ていたのですけれど、それでも連日記者が詰めかけて、あの人は、あの人はとたずねてきました。当時の私は、何だかひどくぼうっとしていて、少し涙が零れましたけど、泣くタイミングを逃したような、好きだったけれども、あなたの事は遠い存在だったような不思議な気持ちで、編集長さまや同僚たちの方が、よっぽど心配してくれて、その方々の涙の方が、私のものより尊く美しいように思えました。 夢と、現実と、一点だけ繋がった一夜。 本当に優しい人は、孤独なのだ。誰の中にも自分の居場所を置けぬのだ。あなたが遺書を残さなかった事を、人は様々に言いましたけれど、どれも違う気がしています。多分、なるべく人の目を煩わせる事のないようにという、そんな配慮だったのではないでしょうか。 あなたは優しくて、まるで宝石の敷き詰められた箱を、そっと閉じるみたいに死んでゆきました。 あなたは、どうだったのでしょう。私は、あなたにとって何だったのでしょう。 この手紙は、死んだあなたに届くとは思いませんけれど、でもこうして書いていれば、誰かの目に触れるやもしれません。私、何だか、それを待っている気がします。後を追おうかと考えたけれど、私の心臓は、どうやら存外丈夫なようです。ずるい女とお思いください。あなたは遺書を書きませんでしたけれど、私はあなたを書きたくなったのです。 いいえ、あなた。私、知っておりますの。 死ぬつもりはなかったんでしょう?ほら、私を抱いたから、火照った体を冷ましにでも行かれたのでしょう?朝方の海は、冷たくって、気持ちが良さそうね。 涙がでたので、やめます。 さようなら。あなた、とっても悪い人。
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