波女史

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人はあなたの事を、無口だ、仏頂面だと言います。あんなに良く笑っていたのに。しかし、その記事に出てくるあなたは、確かに、無口で仏頂面でした。普段はそうなのでしょうか。しかし、私は、あなたの場合は違うと思います。流行りが分からぬ父親が、子供へのお土産は何にしよう、とおもちゃ屋さんのまえで立ち尽くすような、そういうものに似ています。 「まだ、私の事が好きですか」 私は、はっとして顔をあげました。あの失態を、やはりあなたは意地悪く覚えていたのです。 逃げる事もできず、返す言葉もなく、ただそこに立っているだけの私。あなたはしかし、宥めるような声で、こう切り出してくれました。 「この海はね。新居から見た景色なんです。ここから電車で一時間くらい」 ここは町はずれで、窓の外には緑が広がっておりました。 「良ければ、遊びに来ますか」 と、例の、あの笑顔。あなたの笑顔は、毎度毎度他人の為にありました。 後日、あなたが宿を引き払うのに合わせて、一泊二日。向かい合わせの席で、電車に揺られながら、あなたの新居を目指しました。 「前言った事、覚えていますか」 電車の、あの揺られる音の中で不意にあなたが聞いてきました。男は、女性に夢を見せる為に在る。覚えておりましたけど、私には、答えられませんでした。 あなたは、答えても答えなくてもいいといった調子で、 「私では、貴女に何も与えてあげられない。貴女が期待するようなもの、その一欠片も、私は持ち合わせていないのです」 「じゃあ、どうして?」 あなたは、それぎり黙ってしまわれました。 電車を下りて、あなたが先で私が後。互いに汗を拭きながら、どうにか新居へ到着し、海辺へ下りて遊びました。季節は既に今と同じ夏でしたけれど、私は泳げなかったので、波をぱしゃぱしゃと足で弾いておりました。あなたもまた海へは入らずに、おどける私を見て、静かに微笑んでおりました。 夢のような時間。あなたと私。世界に二人だけのような、そんな時間。
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