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「お前、卒論どうしている? 進んでいるか?」  男の切羽詰った様子に、加納は眉を上げた。  大学の友人という枠を引けたからだ。 「資料は集め出しているけど、まだ一行も書いていない」 「へえ、テーマは何にした?」  相手が会話を広げようとしている状況に驚きつつ、加納は壁にもたれた。 「さあ?」 「資料を集めているんじゃないのか?」 「漠然としたテーマはあるんだけど、核が抜けているんだ」  男は感心したようだった。  感情の起伏が激しい人間を、大学内の知り合いに当てはめてみる。  名前と顔が一致しない学生が多くいた。  埒が明かず、頭を振るう。  ズキリと薇を突き刺される感覚が走り、加納は床に尻をついた。 「そうか。ところで、お前、何学部にいったんだ? 俺、卒論ではさ、実験をやったんだよ。理系ならアドバイスできるぜ」  突如、浮上した謎の言葉に耳を疑った。  何学部にいったんだ、ということは同じ大学ではないのか?  いや、それよりも男は過去形を使ったではないか。  蒼白になった。  間違い電話だ。  偶然、苗字が同じ人間に、男はかけ間違えたのだ。 「すみません」  改まった口調に違和感を抱いたのか、男が間の抜けた相槌を打った。 「あの、名前を訊いてもいいですか?」 「はは、何だよ。薄情なやつだな。昨日も会っただろ?」  昨日、加納は誰とも話をしなかった。  やはり、この男は誤解をしているのだろう。  加納は重ねて謝罪した。  男は静かに笑った。 「一村だよ。一村仁志(いちむら ひとし)」  加納は額を支え、頬を吊り上げた。 「すみません。ここまで話をして申し訳ないんですが、俺は一村さんの知っている加納じゃないんです」  一村が黙り込む。  怒っているのかもしれない。 「すみません。もう切ります」  携帯を耳から離そうとし、「おい」と止められた。  頭痛が悪化していた。  携帯の電波に影響しているのかもしれない。  電磁波だ。 「間違ってない。だってお前、加納篤だろ」  加納は息を飲み、携帯に集中した。     「どうして名前を?」  一村は吹き出した。 「だから、昨日も会ったっていったじゃないか」 「でも、俺は一村さんを覚えていないんだ」  頭痛に便乗し、本音をぶちまけた。
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