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「奪ったりしない」
瞼の裏に、幼い日の自分と加納がいた。
俺はもう彼から多くのものを貰った。
だけど、宏はまだ足りないのだ。
俺は弟を抱きしめた。
大きい体だ。
それだけ月日が経ったということ。
だけど、俺達は大人に成り切れない。
怖くて不安で、人肌が恋しくなる。
「大丈夫。お前には加納がいてくれる。宏、加納と二人で話をさせてほしい」
頬を吊り上げた弟の肩に、手を乗せる。
「一歩、進みたいんだ」
宏が唇を噛みしめる。
こちらの手を払い、無言で病室を出て行った。
数分後には、俺と加納以外いなくなっていた。
俺と加納は、どちらともなく手を重ね、指を絡めた。
「俺は、お前が好きだよ」
俺は口角を上げた。
「俺も好きだ」
加納が微笑む。
つられて笑った。
「俺は亜子と生きていく」
「ああ」
「俺はお前との約束をなかったことにする。俺は俺のために生きる」
加納の唇が伸びる。
「お前はもう、自分のために生きているんだろ?」
「どうだろう? よく甘いって人から注意されるけど」
「死にたいか?」
「死にたい時もある」
でも、と加納が天井を見上げる。
「本当に死にたい時は、死ぬことすら頭にないんだ、きっと」
俺はこういう時、加納と共にいたいと、心底思う。
「しようか?」
加納の体に押され、仰向けに倒れる。
加納の顔が間近に迫り、そして寸でのところで止まった。
俺は首を傾げ、口を少しだけ開けた。
加納の息を口腔に感じる。
触れることはなかった。
言葉もなかった。
それでも、この人を好きだという想いがあった。
確かにそこには、快楽があった。
充分だ。
俺はもう、この痛みで、いくらでも頑張れる。
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