あの夏のポラロイド

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小さな頃から父親とヨットに乗っていたという君の実力は、部員の中では抜きん出ていた。 ヨット部ではトレーナー役を務め、 男女分け隔てなく気さくに接する君は、 誰からも好かれる、二つ年上の先輩だった。 まるきり初心者の新入部員は僕だけで、 僕の下手さ加減に爆笑しながら、遠慮なく罵声を浴びせる君は、 その言葉とは裏腹に、真面目に一からヨットを教えてくれた。 手取り足取りの指導を受けているうちに、 僕は君に恋をした。 あの夏の合宿前、 断崖絶壁から飛び降りるつもりで告白した。 思いもかけず、頷いてくれた君に有頂天で、 ヨットの上達を心に誓い、気合いを入れて初めての夏合宿に参加した。 鬼のトレーナーと、年下のヘタレ彼氏として、部内では公認だった僕達は、 二人でひとつのヨットに配置され、 昼間は海の上で君にマンツーマンでシゴかれた。 毎日ヘトヘトで、 晩飯を食ったらすぐに瞼が落ちる日々。 それでも、君が傍にいる嬉しさと、 少しずつ、風を自分のものにできる楽しさとに、 浮かれていた僕は、君の翳りに気づかずにいた。 最終日の夜中には、二人でこっそり合宿所から抜け出した。 波打ち際で交わした、初めてのキス。 そのあと歯止めが効かずに暴走し始めた僕を、君は思い切り突き飛ばし、 僕は浅瀬に尻餅をついてずぶ濡れになって初めて、 ようやく我に返った。 「夏が過ぎたらね」 君はそう言って、なだめるように、僕の額にキスを落とした。 あの夏のあと。 後期の授業が始まってひと月が過ぎても、君は大学に現れず、 履修届さえ出していなかった。 学務に問い合わせたら、すでに夏休み前に、退学届が受理されていた。 君は、誰にも何も告げずに、姿を消した。 『写真は光と影の芸術』 そう言ったのは誰だっただろう。 ポラロイドの中で色を失った君は、光さえもあやふやで。 それなのに心に蘇るあの頃の思いは、まだこんなに鮮明なのだ。 また、夏が来る。 まだ、忘れられないでいる。 セピアのポラロイドが、色と光をまとった新しい写真に変わる日を、 まだ、僕はどこかで願っている。 Fin.
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