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通勤時間は苦痛だった。憂鬱な仕事に向かう時間というだけでも気が滅入ると言うのに電車の中には僕と同じような顔をした人間が無数に詰め込まれているのだ。湿度も高いし空気も薄い。まるで空気を求める魚のように口をパクパクと動かしたくなる。
まだ座席に座れればラッキーだが、皆考えることは一緒だから座席に座れる日というのはほとんどない。その日も座席に座ることができず、入口付近の手すりを持ちながら立っていた。
通勤に使うのが地下鉄というのも朝を憂鬱にする要因の一つでもあった。地方出身の僕には地下鉄というのは就職して都市部に出てくるまで縁がなかった。電車と言えばのどかな田園の中を走っているイメージが強い。窓の外を流れていく景色を眺めるのは好きだったのだが、地下鉄から見える景色は灰色のコンクリートと薄暗い闇に浮かぶ電灯の明かりしかなく退屈な事この上なかった。
それでも死んだ魚の目をして詰め込まれている人々を見ているよりはまだマシという理由だけで窓の外を眺めていた。地下鉄に乗っている時間はおよそ三十分。たった一度だけ地下鉄が地上にでる瞬間があった。時間にして一分程。暗い地下から地上に出てまたすぐに地下に戻る。この瞬間だけは僕は気に入っていた。
地下の暗闇から明るい地上に出る瞬間に目の前に広がる朝日の眩しさとそれを反射するビル群の窓が綺麗だと個人的に思っているからだ。地下鉄が地上に出る。車窓に朝日が差し込んできた。憂鬱な気分が少しだけ吹き飛んだ気がした。
地上を走るほんの僅かな時間。隣の線路を走る電車が僕の乗る電車と並走する。ドアとドアの距離は近く隣の電車に乗っている人の顔も見えるほどだ。僕と同じように入口近くに立っている女の人が見えた。スーツ姿で片手に文庫本を持っていた。
最近電車で本を読む人が減ったなと感じていた僕は少しだけ嬉しくなる。僕も電車では本を読んで時間を潰すタイプの人間なので仲間を見つけたような気持になったのだ。
女の人が僕の視線に気が付いたのか文庫本から視線を上げて僕を見た。目が合った事が気恥ずかしく誤魔化すために小さく会釈をした。女の人は最初不思議そうな顔をしたけれど、小さくほほ笑んで会釈を返してくれた。
それが僕と彼女の最初の出会いだった。
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