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見上げる水面は随分と穏やかに凪いでいた。
木々の隙間から降り注ぐ陽光が煌めいて、さながら宝石のごとき美しさを映し出す。
私はそんな美しさから離れていく。
ゆっくり、ゆっくり、深みへと沈んでいく。
名残惜しさに手を伸ばせば、骨と皮だけになった己の腕がそこにある。
あぁ、私は年老いていたのだった。
だからこそ沈んでいくのだった。
あの美しい景色の直中から──暖かい冬の日だまりから──暗く、静かな沼の底へと降りてゆくのだった。
息苦しさは不思議とない。
いいや、“苦しさ”とは果たして何だったか忘れてしまった。
昨日の夕飯は何だったか。
一昨日の天気は何だったか。
私の孫はどんな顔をしていたか。
そもそも私に孫はいたか。
私の娘はどんな顔をしていたか。
その名前は何といったか。
忘れてしまった。
水面から遠ざかっていくほどに、少しずつ記憶が薄れていく。
思い出そうとするたびに弾けて消える。
あぁ──果たして私は誰だったのだろうか。
ほの暗い水の底。
柔らかな泥の感触が背中に伝わる。
思っていたより、温かい。
……これから私は沼へと還る。
皮は破れ、肉はほどけ、骨は溶けて、この泥と一体となる。
そうして私は土へと帰る。
私を育てたこの山を成す黒い土へと。
長い時間をかけて、蕩けていく。
蕩けて消えて、次に来る誰かを待つ。
名前も顔も知らない誰かを、ここに眠る皆と共に──……
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