麦わら帽子と白いワンピース

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 平坦な道がつきる頃に、今度は坂上にでた。そこからはもう眼下に海がのぞまれた。海はあの頃とちっともかわらない姿をそこに大々とよこたえている、かわっているのは自分ばかりか、……  坂道をくだり、車道をよこぎり、海につきでたうら寂しい高台の欄干にもたれた。胸をおしつけるようにしたから胸がせつないほど苦しい。  穏やかな風がさよさよと麦藁帽にかるく挨拶してくる。まるで海に歓迎されているようで彼女はここちよかった。微笑をうかべ、じっとりと海に視線をそそぐ。  海上には片雲がさすらい、海鳥は飛びかわし、寛にたゆたに平和なひと時をすごしている。海というのはまったく自由だった。ここにはなんら束縛というものもなく、窮屈な人間世界の約束事もなく、ただ生命がうまれ、死んでいくばかりである。ここには単純な弱肉強食の世界があるばかりで、アザラシがシャチに食い散らかされて赤い生温かな血潮を氷上にぶちまけ、狼藉たる惨状をそこに呈しようと、取るに足らぬことなのである。そんなことはこの世界のどこでもいつでもおこっているもので、そんなものに一々悲憤こもごも泣いたり怒ったりする人間はよっぽど暇にちがいない。笑えばよろしい。惨劇こそ笑って楽しむべきものである。  これは海に対する感傷としては下等に類する平々凡々きわまるものだったが、このような典型的な海への憧憬は彼女の心をなぐさめて余りある十分な力を有していた。自然とはかくも人間のとかく複雑ぶりたがる心を単純な元素まで帰する不思議な魅力があるらしい。  斜光は上から下から縦横無尽に彼女に襲いくる。きびしく彼女を呵責するように日射は照り付け、その怒濤を反映するように海からの照りかえしがぎらぎらと彼女の平静を打ち壊そうと水面を走った。  盛りの夏のもとにある、海は燃え立つようにすさまじく、文字通り火の海と化した大海は人間の立入りを禁ずるようなあらあらしい威厳にみち、風は威風堂々たる貫禄をばたばたとはげしく立ててそのうえをとびすぎている。  彼女の心はこの印象に強烈にひきつけられた。こんなことは未だかつてないことだった。彼とのことで満たされている間はついぞあじわったことのない頽廃的な快感だった。  
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