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 本所業平橋の借家の布団で、私は夢を見ていた。福島の温泉にガラス壜を入れて、研究資料を採取していると、どこからとも無く現れた支那人の一団に取り囲まれている。青龍刀を手にじりじりと迫ってくるが、取られるものなど何も無い。それにこれは夢なのだから、命を取られたってどうということもあるまい。銀幕で馴染みの頭目が叫ぶ。 「小野、小野忠之は在宅か」  良いところで邪魔をされたな。心地よい夢の世界に現実の光が射し込み、二間限りの部 屋へと引き戻される。枕元の懐中時計を手繰り開くと、すでに十一時を回っている。 「加納だ。水戸中学の加納だ」  その名を聞くと、私は布団を跳ね上げて障子を開いた。「水戸中学の加納」と名乗った 男は、中学生ではなかったが、たしかに加納であった。 「何年ぶりだ。十五年というところか」  二年の夏に加納が東京に越して行ったのは、まだ震災前のことだ。同窓会には準卒業生ということで出席をしているようだが、私自身が一度も顔を出したことがない。大学を出た後も、仕事らしい仕事をすることもなくいる私にとっては、同窓と顔を合わすことが、憚られるのだった。転校していった加納にはそうした思いを感じずにいられるのが楽であった。寝巻き姿のまま、三和土に下りて加納の手を取ると、開け放たれた引戸の向こうに銀世界が覗いた。東京の三月には珍しい。降り積もった雪を、眩しい陽光が透明に変えようとしていた。  加納の家は両国だということだ。思いのほか近くに住んでいたものだ。立憲政友会の代 議士の家で、書生をしている。昔は電気技師になりたいと言っていたものだが、今では宗 旨変えをしたわけである。もっとも、大学で火山学を専攻したものの、今では浅草の活動 小屋で弁士の見習いのようなものをしている私には、宗旨など無い。  二人はとりとめもなく話をした。熊と呼ばれていた英語教師のこと。昨年の首相暗殺事件に参画した橘孝三郎の愛郷塾のこと。そのうち、実践女学校の生徒の投身自殺の話になり、英国の不況の話になった。オタワ協定が不調に終わったからには、再び日英同盟が必要になる、と加納は断言した。何の用事であったのか、加納は茶に口もつけず話し続けた。見送りに出た表通りに、雪はすでになかった。
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