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大学の研究室も夏の間は、人が少ない。時々、様子を見に行っても、たいてい、空っぽだった。本来、情報工学なんていう学問は、研究室の机に向かって、みんなでやるようなものではない。長い休みになれば、誰もが実家に帰ってしまうのも当たり前だ。それに、研究よりも楽しいことや、研究よりも大事なことはいくらもある。誰もが、それを知っているのだ。そんな時は、自室に戻り、パスワード破りのプログラムを改良して過ごした。 パスワードの寿命はせいぜい、二ヶ月だ。そのパスワードで散々に商品を注文し、通信をしまくると、翌月には請求額の大きさに、当人が驚いて差し止めてしまう。だから、頻繁に新しいものが必要になる。もっとも、パスワードを売る側からすれば、そうでなくては困る。あまりに長期間に渡って使い、逮捕される人間もいる。売った側にまで、それが及ぶ事はまずないが、そんな時にはヒヤリとする。
テレビが「ネットワーク犯罪の手口」という特集を流している。ネズミ講。マルチまがい商法。取込み詐欺。外国宝くじを装った贋広告。裏ビデオの販売。国際電話詐欺。贋の通信販売サイトによるクレジットカード番号の盗難。それから……。別にネットワークだからというわけでもない、古典的な犯罪が並ぶ。そんな画面を眺めながら、コピー作業を続ける。
机の上の電話が鳴る。佐知子からだ。
「もしもし、佐知子です。今からいいかしら」
佐知子の元に急ぐ。僕は、一度も彼女をこの部屋に入れたことがない。非合法な商売の行われている部屋に入れるのは、憚られた。秘密を守るとか、そういったことではない。いつも白いブラウスを着た彼女には、あまりに不似合いな場所だと思えたからだ。だから、彼女の元に急ぐ。そして、一晩中車を走らせる。
東名を一気に進む。どこからか、潮の香りが微かにしている。夏の空は暗さを増す。照明灯に遮られて星は見えないが、僕らの周りには、すべてを吸い込む闇がある。微妙な路面の起伏に体を揺すられて、妙に意識が高揚していく。音楽と彼女の低いハミングを乗せて、どこまでも行く。
「このまま、京都まで行こうか」
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