僧侶と老婆

6/7
前へ
/7ページ
次へ
私は目を疑った。 海面から青白い手が無数に生えていた。 手には水を汲んだ柄杓が握られていた。 肌が粟立つ。これは幻覚か。はたまた海の亡者の怨念か。 こんなことで心を乱されてはならない。 私は必死で真言を唱えようとしたが、口が渇いて念仏が唱えられない。 底に穴を開けた柄杓を投げ込めば。と立ち上がろうとしたが、膝から崩れ落ちた。 もう立ち上がるだけの体力も残っていないのだ。 青白い手が、ばしゃっ、ばしゃっ、と小舟に水を入れる。 私の人生もこれで終わりか。そう諦めかけた時、顔面に水が命中した。 甘露。この言葉でも言い尽くせない。 口に入った水は、海水ではなく真水だったのだ。 船底に溜まった水に顔をつけ、獣のように水を貪る。 美味い。美味い。美味い。 身体に染み通っていく。 そのまま、私は気を失った。 「これが、私が体験したこと。意識を失った私が流れ着いた所が、あなた様の家なのです」 一気に話し終えて、胸のつかえが降りたような気がする。 「ふぉっふぉっ。難儀な目に遭いましたの」 老女が茶を淹れながら、しわがれた声で笑う。 「情けない話です。西方浄土へも行けず、挙句の果てに船幽霊に命を救われるとは」 「船幽霊のう。お坊様は千手観音を信仰なさってるんじゃろ? 少しこの婆にも教えてくれんかね」 「ええ、構いませんとも。こんな似非坊主の講釈であれば」
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加