残酷な真実と優しい嘘

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残酷な真実と優しい嘘

 竹下さんが出て行った後、どれぐらいの間、玄関に座り込んでいたのだろう。鍵もチェーンもかけずに、ただ茫然とフローリングの木目柄を見ていた。  我に返ったのは、リビングに置いたままだったスマホが鳴り出したせいだった。一瞬ビクッと震えてしまったのは、亮ちゃんからの電話かと思ったからだ。でも、違った。この着信音はニナだ。  立ち上がろうとしたのに、身体中の筋肉が働くことを放棄したみたいに力が入らなくて立てない。壁にしがみつきながら漸く立てた私は、サンダルを履いて鍵とチェーンをかけた。まずは戸締りをしっかりしないと安心できないというのもあるけれど、今は竹下さんが戻ってくるような気がして怖かった。  一旦切れた着信音がまた鳴り出したので、私はスマホの通話ボタンをスライドさせた。自分でも酷くノロノロとした動作だったと思う。 「もしもし」 「あ、海香、帰ってた?」 「うん」  返事をしながら壁の掛け時計に目を走らせると、とっくに十二時を過ぎていた。  ニナは私が何時ごろバイトから帰ってくるか知っているから、こんな夜遅くに電話してくることも時々あった。学生の時のノリで、他愛ない話を二人でグダグダと続けるのも楽しい。でも今は誰とも話したくない気分だった。 「あのさ、実は今日さ……」  何か言いかけたのにニナが黙り込んだ。「何?」と問いかけても、ニナはなかなか続きを言おうとしない。電話の向こうで微かに人の声がしたから、テレビに気を取られているのかも。そう思ったから、促すように名前を呼びかけた。 「ニナ?」 「……今日ね、夕方亮さんを駅で見かけたんだ。女と手を繋いで歩いてた。たぶん、あの竹下って女。ピンクのデカいキャリーを亮さんが持ってあげてて、周りが引くぐらいイチャイチャしてた」 「嘘……」  竹下さんの話を聞いた時、私は彼女の言うことをすっかり信じて打ちのめされた。亮ちゃんを疑いたくはなかったけれど、彼女はあまりにも私たちのプライベートを知り尽くしていたから。  亮ちゃんが童貞だということも、私の男性恐怖症のせいで私たちが結ばれていないということも、亮ちゃんが話さなければ竹下さんが知っているはずのないことだ。  でも、心のどこかで竹下さんを疑う気持ちが残っていたのだと思う。たとえプライベートなことを彼女に話したとしても、亮ちゃんが浮気したという証拠にはならないんじゃないかと。  自分に都合のいいそんな考えは、今のニナの言葉で木っ端微塵に砕かれた。毎週ジムで亮ちゃんと会っているニナが、彼を見間違えるわけがない。真実は残酷だ。  ブワッと涙が溢れて、それ以上何も言えなくなった。
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