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ハスキーでささやくようなハミングは、デブオタの耳にはまるで蚊が鳴いているように思えたが、しばらくすると誰も気づかないことに安心したのか小さな英語の歌声に変わった。
何の歌かはすぐにわかった。
グリーンスリーブス。世界中の人が知っているイギリスの古い歌である。切ない愛の歌を透き通るような少女の声が優しく歌い上げている。
(だけどえらく遠慮しいしい歌っていんな。聴いててかわいそうなぐらいだ)
デブオタは、自分の気配を悟られないように音を立てずに気をつけながら耳を傾けた。
どんな少女なのだろうか。声からして十代の半ばくらいのようだった。
誰かに聴かれるのを恐れているような小さな歌。
美しい歌だとデブオタは思った。
下手に音でも立てようものなら彼女は歌い止めてしまうだろう。怯えて逃げてしまうかも知れない。
彼女に気づかせず、歌い飽きるまでここで聴いていようと彼は思った。
だが、そんなささやかな思いやりを台無しにして、歌声を断ち切ったのは別の少女の声だった。
「うわ、またこんなところで歌ってるの。さっさとどこかに消えなさいよ」
それは美しいイントネーションの英語だったが邪悪なくらいの悪意が籠もっていて、歌い手が怯えて竦む気配が彼に伝わってきた。
「あのね、エメル。さっきのはもしかして歌のつもり? 歌を何だと思ってるの? バカにしてるの? アンタはそんな歌モドキなんて歌っちゃいけないの。歌う資格なんかないの。日陰でイジけてなさい。と、言うよりここから消えて。日本に帰って」
いきなり酷いこと言ってやがる。それより日本に帰れって言うことはさっき英語で歌っていたのは俺と同じ日本人ってことか? と、デブオタは壁に耳を寄せた。
「そもそもここは歌を歌う場所なんかじゃないの。ハーフのアンタがイギリスにいるのも不愉快だし、歌っているのも不愉快だから。私が言ってること理解出来る? だったら私の視界からどっかに失せてちょうだい。いっそドーバーから海にでも飛び込んで死んでくれたらいいのに」
おいおい、ちょっと言いすぎだろ。こりゃもしかしなくてもイギリス流のイジメって奴か? と、彼は顔をしかめたが、非難を浴びている方はただ黙っていた。
それをいいことに、非難する声はますます毒を孕んでゆく。
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