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第1話 蚊の鳴くような歌声と他人の喧嘩を買う男
「うぉぉートイレ、トイレ、トイレはどこだぁああああ!」
うららかな春の昼下がり。
日本人とおぼしき一人の巨漢がいま、イギリスはロンドン近郊にある小さな公園の中をうめきながら彷徨していた。
身長は一九〇近く、相撲取りと見まごう体格をしている。着ているTシャツには某人気アニメの美少女がプリントされていたが、男のはち切れんばかりの肥満体によって彼女の笑顔は極限まで横に引き伸ばされ、妖怪と化していた。
かわいそうに、通りかかった幼稚園児がその恐ろしい笑顔をまともに見てしまい、わあっと泣き出した。傍らの母親が慌てて連れ去ってゆく。
これだけでも見るに耐えない光景だというのに、男はお腹を壊しているらしい。内股で腹を両手で抑え、まるでチャップリンが踊っているような恰好で公園の中をウロウロしていた。
彼の容姿はどこから見てもマッドサブカルチャーの聖地、日本の秋葉原からそのまま瞬間移動してきたような気持ちの悪い容姿の太ったオタク、俗に言う『デブオタ』だった。
公園の散策を静かに楽しんでいたイギリスの紳士淑女達は、せっかくの雰囲気をブチ壊すこの異国の不審者へ訝しげな眼差しを向けていたが、当の本人はそんなものを今気にしている場合ではなかった。
脳内では嵐のように緊急警報が鳴り響いている。
それは、ありったけの力で阻止している下半身の危機がもはや限界であることを彼に告げていた。
「と、トイレは誰? 私はどこ?」
切羽詰まっているので、尋ねる言葉ももはや支離滅裂な日本語である。
理解出来ない日本語を鬼気迫る顔で問いかけられたのは品の良さそうな老婦人だったが、無論答えられるはずがない。彼女は「ア、アイムソーリー!」と叫ぶや怯えた顔で一目散に逃げ去ってしまった。
「くっそおおお、トイレはどこだって聞いてんのに何が『私は総理』だよ。イギリス流のジョークって奴か? ったく、こっちはそんな余裕なんてねえっつーの」
言った言葉も聞き取った言葉もおかしいのは彼の方なのに、てんで気が付いていない。
「って、そんなこたぁどうでもいいんだ。あうう、お腹が、お腹がもうメルトダウン寸前だ。いかん、このままでは日英間の国際信用に関わる深刻な事件がもうすぐ起きる……」
ブツブツ独り言をつぶやきながら四方を見回したデブオタは、ふいに「おおっ!」と、眼を輝かせた。
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