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さっきまで消えていた波の音が、百合子の耳に蘇った。
「俺が引きずりこまれるのを見てあの人は、助けるために海に潜ったんだ。俺の足首を掴んでいた青黒い手を引き離すと、揉みくちゃになりながら沈んでいったよ。結局、俺は助かったけどあの人はダメだった。三日後に見つかったあの人は、まるで鮫にでも食い荒らされたみたいに酷い状態だったんだって」
「幼かったから、俺は見てないけど」と自嘲気味に笑う聡の顔を月明かりがユラユラと照らす。
「この海だよ。この砂浜から見える、あのテトラポットの上だった」
立ち上がって聡が指を指した場所は百合子には馴染み深いコンクリートの浜だった。
百合子の父親は去年の暮れに死んだ。
青黒い肌が褐色になっていく様を周りが「早くしろ」「何を考えているんだ」と急かしながら咎めていたけど、ついぞ出来ずに命を尽きた。
「どうやら人間の女に恋をしたらしい」
「ほら、前にあいつが狩ってきた若い人間がいただろ」
「あぁ、あの!」
「あれの連れ合いだってさ」
「何だってそんな事になったんだ」
「それから人間を食えなくなったらしいぜ」
「奥さんも可哀想にな。旦那が人間に魅入られちまうとは…」
「人間食わなきゃ生きていけねぇってのが俺たちマーフォークの性なのになぁ」
百合子はそんな話を耳にしながら、干からびた父の亡骸をいつかの自分の姿だと思って目に焼き付けていた。焼けて、焼けて、落ちてしまうほどに。他に好きな人が出来た主人を見送る母の寂しさも気遣えない程に、自分と同じ状況で、朽ち果てた父の最期を。
「君のお父さんの最期は、どんなだった?」
百合子の顔を見る事なく、聡が問いかける。声が震えているようだ。父の死後、百合子の母は1人の人間を狩ってきていた。この海辺に花を添えていた、華奢な女性だったらしい。百合子は彼女を食べる事が出来なかった。
「人間のように生活して、人間を騙して、人間を食べていたお前達は、どんな風に死ぬんだろうね」
聡が顔を向けた時、2人が二度と会う事は無くなるだろうと百合子は悟った。覗き込むように話しかけてくれた聡を思い出そうとしたけれど、もうそれも許されないのだ。
海の中から、声がする。
そう感じたのはきっと、百合子だけではなかったのだろう。
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