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 ヒトの形をした真っ黒なもの。  車両内という限られた空間の中で、それに囲まれるのはやはり怖い。  それでも、ここから逃げられない――逃げてはならない、と思ったのはボクが呪を発現させてしまった以上、無責任に放ったらかすなんて愚かな真似はできないし、許されないと思ったからだ。  それに、呪が間近に接近してわかったのだが、彼らはずっと、こう呟いていた。  ――ココカラ出タイ。 「これは単なる憶測に過ぎないんだけどさ。言霊の一節に『此ノ場に縛られ彷徨う"シュ"』とあるだろう? もしかしたら呪の正体は、この地下を彷徨う魂なのかもしれない」  言霊を発する直前、ボクはホームに吹く風を魂に見立て、それを相手に『暗い場所から抜け出せなくて、平気か?』と尋ねている。  だからその問い掛けに対し、呪は『ココカラ出タイ』と答えているのではないか。 (彼らはきっと、地下鉄に乗って、路線という紛い物の輪廻の中を彷徨い続けているんだ)  抜け出せない暗闇の中を、ずうっと。  そう考えると、背筋がゾッとした。 「呪をここから解放して、本物の輪廻に還してやらないと、彼らはこの場に縛られたままだよ。ねえ、桜祈、君の力を貸してください!」  顔の前で合掌し、頭を下げて頼むと、相手は困惑の表情を浮かべた。 「要は呪を祓い浄めろと言うことか。邪気を祓う力の弱いぼくに無茶を言う。おっと」  こうしている間にも、呪はボクに取り憑こうと腕を伸ばす。桜祈はこちらに伸ばされた呪の手を払ってから、電光掲示板を一瞥して、ホームまでの到着時間を確認した。  まだ時間が掛かるらしい。チ……とままならぬ状況に舌打ちをした彼は、渋々といった様子で深く息を吸う。  ピィィィィッ!  桜祈の吹いた甲高い口笛が車内に響き渡り、呪が一斉に退いた。  だが、口笛が止んだ途端に、呪は再びこちらに歩み寄り、それを見た桜祈は肩を竦める。 「やはり、ぼくに浄めは不可能だな。それに祓いだって、時間稼ぎ程度のことしかできないようだ。るか、悪いが君の頼みは聞いてやれない」  どうやら、ボクと桜祈では呪を祓う術がないようだ。  それでも、言霊に巻き込んでしまったもののことを思うと、諦めるわけにはいかない。 「せめて、彼らを無害化する方法があれば……」  呪の性質を持つ存在に、何人たりとも呪うな、というのも無理な話だ。  しかし、今、標的になっているボクが地下鉄から出て行ってしまうと、呪は他の人に危害を加えかねない。それを避ける術はないか? 「あのな、るか」  ひとり、打開策を練っていると、桜祈は静かにボクの名を呼んだ。 「呪とは本来、負の感情が凝ったものなのだ。君の憶測だとコレは魂なんだって?」  ボクが頷くと、彼は顎に手を当てて品定めするように呪を見つめる。 「先も伝えたが、コレは言霊により"呪"の性質を与えられた。粗方、負の感情を極限まで増幅されたのだろうよ」 「そんな」  彼の言う通りなら、呪にされてしまった魂は、今、負の感情に呑まれて、苦しんでいる筈だ。  不用意に『呪』と唱えてしまった自分の罪深さを知り、項垂れる。 「ボク、やっぱり彼らを救けないと。たとえ焼け石に水だとしても、ボクはボクが出来得る限りのことをする。ねえ、彼らから負の感情を取り除けば、呪の性質は解除されないかな?」  桜祈に縋るが、彼の表情は堅い。 「るか、負の感情に強く囚われた者は、そう容易く救えぬよ。ドス黒いヘドロのような思いに溺れながら求めるのは、救いではない」 「じゃあ、何?」 「道連れ。それが呪の本質だ」  断言された残酷な真理。  それを告げた彼の瞳は、どこか憂いを帯びていた。  なんだろう? 桜祈が酷く苦しげに見える。 「桜祈?」  心配のあまり、彼の背中に手を添えれば、薄く笑って、平気だと呟く。 「なんてことない。ぼくは大丈夫なのだよ。なあ、るか、聞いておくれ」  ボクを見詰める眼差しに、普段の尊大さはない。水面に映る月のように、心許無く揺れる瞳がボクの姿を捉える。 「君がコレに負い目があるのは、ぼくにだって少しはわかるのだよ。だがな、今回ばかりはあまりに荷が勝ちすぎている。このままだと君が危うい。呪は君が思う以上に厄介なものだと、どうかわかっておくれ」  心からボクの身を案じて、嘆願する。  こんな彼を見るのは、初めてだった。  ボクが幼い頃から傍にいて、言霊の暴走が招く脅威からボクを庇護してくれていた桜祈。彼がいるから、ボクは今日までなんとか無事に過ごせた。  だが、今はその頼もしい相棒が、ボクにこの場からの撤退を強く求めている。それだけ危機的な状況なのだ。 (でも……でも、逃げられない。逃げたくない)  トラブルの元凶として負うべき責任、呪への負い目が、心をこの場に強く引き止める。  ふと、視界の端に光が見えた。ホームの照明だ。間もなく、地下鉄は駅に到着する。  桜祈のこの様子だと、ボクを引き摺ってでも車両から降りようとするだろう。時間がもうない。 (諦めるな、考えろ!)  焦燥に駆られ、思わず荷物を胸に抱き締めた。  荷物から、クシャ、と乾いた音がする。 (紙袋? そうだ、お土産買ってたんだっね。芳月堂の……ん?)  紙袋に書かれた店名を見て、あるアイデアが浮かぶ。それはごく小さな閃きだけど、現状を打破する可能性を生んだ。  思いついたのは、かなり危険な賭け。けれど、この時間も危機も迫った状況の中で、これが唯一の打開策だ。 (無謀だけど、やるしかない!)  決意を固め、決行のタイミングを待った。
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