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花にとってそれは初耳の話だった。
「大爺様に?お願いしてあるの?」
「そう。大爺様と私だけの話だから、ほかの家族はこのことは知らないけど。ここではそれだけで十分だから、花は心配しないで大丈夫なのよ。」
そういって沙奈江は花に微笑みかけた。一瞬、花の胸に安堵のような気持が広がりかけた。犯罪の手伝いなんかしないでいいのだと。私は普通になれる。だが何かかが、その気持ちを押しとどめる。本当に蛭子の人間が、何も見返りを求めずに裏切り者の願いを聞くだろうか?
「花?」
下を向き黙り込んだ花を不安げに見つめる沙奈江に、花は目を向けた。
「代わりに何を渡したの?」
「え?」
代わりにお母さんは何をしたの?途端に沙奈江の顔から表情が消えた。
「なにも。」
何もしてないよ。虚ろになった沙奈江の目は花でなく、別のところを見つめているようだった。沙奈江は何かを隠している。そしてそれは花には言えないことのようだった。沙奈江の様子に、花の中でいろんな想いがいりまじり、嵐のように荒れ狂い始めた。
どうして?どうしてお母さんは何も言ってくれないの?家族なのに……。涙は出なかった。ただ、怒りのような気持が花の中に沸いていた。
「どうして私に何も言ってくれないの!蛭子家のことだって、ここに来るまで何一つ教えてくれなかった!家計が苦しいことも、大爺様との話も」
お父さんのことも何も教えてくれない。
花の言葉に、沙奈江は正気に戻る。
「花!それは!」
「もういいよ!」
花は勢いよく立ち上がるとふすまを開け放して部屋を飛び出した。途中何人か家人達に出会い小言を投げかけられたが、花はすべて無視をした。おそらく後でこってり嫌がらせをされるだろうが、今の花にはすべてどうでもよかった。とにかく今は一刻も早く、母とこの屋敷から離れたかった。玄関を出たところで、学校帰りの千秋と出くわした。
「花さん、どうしたんですか?」
例にもれず花に近づいてくる千秋を花は無視し、その横をすり抜ける。
「花さん……。」
「ついてこないで!!」
後ろで千秋が付いてきそうな気配を察し、花は振り返って声を荒げ、逃げるように走り出した。千秋の呼ぶ声がしたが花は振り返らなかった。
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