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二、
※ ※ ※
「へいき、へいき……お父さんだって、平気になったんだから」
母との会話で、ふと、このまま一生、海を見ることも、触れることもなく、死んでしまうんだろうか、と気付いてしまって、それは嫌だ、と強く思った。
ずっと嫌いだったのに、そんな風に思うことが不思議で仕方がなくて、足を動かさずにいられなくなった。
駅へ向かい、電車を乗り継いで向かった先は、人気のない海岸だ。
陽はまだ高い。ちょっとだけ見れば、きっと心は落ち着く。
歩いていくうちに海の姿は見えないけれど、潮の香りは届いてくるし、波の音が聞こえてくる。
心臓が、どきどきして、苦しくなってくる。
「う、み」
視界いっぱいにひろがる、あおに、涙が零れてくる。
あぁ、ここに、帰ってきたかったのだ。
そんな言葉が、浮かんでくる。
誰かが呼んだ気がして、辺りを見渡すけれど、私以外に人はいない。
「か、帰ろう、かな」
自分の声が震えているのがわかる。帰りたい、という気持ちはあるのに、どこに帰りたいのかわからなくなってしまって、涙が止まらない。
母の顔、父の顔、友達の顔が、思い浮かんで、そして、少しずつ薄れていく。
何を話していたか、何を大事にしていたのか。
掬っては零れる、海水のように、止めることができず、薄れていって、ぼやけてしまう。
代わりに、潮の香りと、波の音で、心がいっぱいになってしまう。
ざわざわと落ち着かない気持ちは、どこかへ消えてしまっていて、あの海に触れてみたい、という気持ちが芽生えてきた。
(おとうさんも、同じだったのかな)
もしかしたら、ここに来るのは父だったのかもしれない。
私は、父の心を受け継いだだけなのかもしれない。
『あら、出かけるの?』
爪先が波打ち際に触れた時、はっきりと母の声を思い出した。
心配そうに、不安そうに私を見つめる母の瞳。
薄れていたおもいが、甦る。
「……」
一歩ずつ後ずさり、波の音に耳をふさぎ、海に、背を向け、駆け出した。
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