地下鉄の窓

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地下鉄の窓

 満員電車が好きだと気づいたのは、社会人一年目のことである。  いつもは始業時間よりもだいぶ余裕をもって出社していた当時の私が、たまたま寝坊をして通勤のピーク時に乗り合わせてしまった日のことだ。  あのめくるめく快感は今でも忘れない。  人がこれほどまでに無秩序に詰め込まれ、無遠慮に寄り添いあう場所など他にはなかった。人波に流され列車の乗り降りを数回繰り返し目的の駅までついたとき、駅のホームへ降りることをどれほどためらったことか。 「会社に行きたくない」  大多数の人が一度は抱くであろう思いを、こんな切実に感じることになるなんて。  以来、私はすっかりそのみっしりとした空間の虜になってしまった。少しでも混雑する時間と路線を調べ、出来る限り混雑する車両を探し出し、少しでも強く人を電車に押し込む駅員を追い求めた。  窓が彩度を落とした鏡のようになる地下鉄は、特に最高だった。本来身体でしか味わうことの出来ない密度を、視界でも確認することが出来る。  地下鉄の白い蛍光灯に照らされた、顔色の悪いおしくらまんじゅうは絶景だ。  社会人になって五年。  私はわざわざ遠回りをしていくつもの地下鉄に乗って、満員電車を堪能して通勤していた。
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