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「吉臣殿」
屋敷の奥の方から、吉臣を呼ぶ声がする。
その呼び声が聞こえているはずなのに、庭に面した簀子に座って、目を閉じた吉臣は微動だにしない。
何度も自分を呼ぶ声を、楽しんでいるようにも見える。
自分を捜す声が、近づいてくるのを待っている。
「吉臣殿」
近くで声が聞こえて、ようやく吉臣は顔をあげた。
そして、声の主の方を向くと、優しい顔で微笑んだ。
女人であれば頬を染めるだろうその笑みに、しかし、声の主、綾子は不満そうな顔をしていた。
「先程から、何度も呼んでいたのですが、聞こえませんでしたか?」
「いいえ。聞こえていましたよ」
「では何故、答えて下さらぬのですか」
「私を呼ぶ声を、聞いていたかったのです」
「またそのような」
少し呆れたように綾子は言って、吉臣の隣に腰を下ろす。
それを目で追う吉臣は、笑みを浮かべたまま。
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