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──そいつから離れろ、沙耶(さや)!
これ以上ない笑みを浮かべている彼女に僕は言葉を投げつける。
《どうして? この人と結婚するのよ、私。誠(まこと)もおかしなこといわないで》
──なにいってるんだ! よく見てみろ、そいつ化けものじゃないか!
《失礼ね》
吊りあがった赤い目に鋸のような歯。手足の爪は鋭く伸び、全身を黒い鱗に覆われたこいつが化けものじゃなきゃ、いったいなんだというのか。
《疲れてるんじゃないの? お盆明けたら病院で診てもらったほうがいいよ。じゃ、さよなら》
──待ってくれ! 行かないでくれ、沙耶!
目の前に星と靴底のパターンが見えた。
「痛ってえ……」
僕の三半規管が確かなら顔は今下を向いているはずで、目前に迫る光沢とそこに浮いたトレッキングシューズの靴跡めいた模様は、それぞれ床とそこに付着した汚れと考えられる──記憶を整理。予期せぬ衝撃の事後処理に追われているのか、脳が思考をボイコットしてきた。神経系統が取り急ぎ、かつ面倒臭そうによこしてきた情報は味覚に関するもの。舌には酒の味以外の食味がまるでない。
「そっか……朝まで飲んでたんだった」
そうとわかればいつまでもこんな格好はしていられない。床は始発電車の客車輌のそれで、存在感のある靴跡はなにを隠そうこの足に履かれたホーキンスの軌跡だ。事後処理を終えた脳は僕にそういってきている。
「あれ? なんで動いてないんだ」
膝立ちで窓の外の闇を見つめながらひとりごちる。
「ていうか乗ってんの僕だけ?」
反射的にスマホのサイドボタンを押す──九時。
「やっば!」
先頭車輌に向かってダッシュ。
「いくら酔客だからって放置はないだろ、放置は。保護義務とかどうなってんだよ」
察するに僕が今いる場所は地下鉄車輌の車庫とかドックとか、おそらくそんなところだ。
連結部を駆け抜ける。案の定といえばいいのか、隣りの車輌にも乗客の姿はなかった。先頭車輌もきっと、という予感も既にしている。
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