夏服の獣人

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 僕は先週も遅刻をやらかしていた。それによって取引先へは迷惑をかけ、企画の責任者からは大目玉を食らい、さらにはほぼ進退伺いといって差し支えない書面を課長宛てに提出させられている。深酒をして居眠りしたまま電車を乗り過ごし、車庫でもすやすややっていたのは別のなにかでごまかすとしても、遅刻の罪だけは免れない。失われた時間をお金で買えるのなら、僕は定期預金を今すぐ解約して贖罪に充てる覚悟がある。 「え……」  粛として無人。客のない客車ごときに今さら驚いたりはしないが、この車輌には運転士はおろか、職員や整備士といったあるべきはずの姿もなかった。人生で二度目の絶句。初絶句は沙耶のマンション近くのガストで昨日。絶句イベント目白押しの夏期休暇なんて誰も望んじゃ…… 「いないに決まってるだろ、酔っぱらい」  掴み放題の吊革にぶらさがって笑った──安堵と自嘲。車内に響き渡る意識低い系の下品な声。それを迷惑に思う者もない。今日は八月の十二……の、明けて十三日の日曜日。都内ががらんとなるお盆の初日だ。高田馬場から始発に乗って西葛西まで帰る客がひとりだけだとしても別に不思議は── 「ない、よな……」  ひとりというワードにタグづけされた諸々が脳内に氾濫する──心にまで狼藉を働く酒焼けした脳みそ。空しさ、切なさ、やるせなさといった類の感情が無遠慮に魂を痛めつけてくる。半ば強制的に蘇ってきたお盆イブの記憶に僕は胸焼けを覚えた。 ──忘れたい。無理ならせめて思考停止に。  嗜虐的な脳みそは僕の細やかな願いを、小作人に対する庄屋の振る舞いで無下にしてきた。自然と折れる膝。一秒ごとに倍していく鼻の奥の痛み。瞬きするたびに物の輪郭がぼやけ、洟が出た。僕は誰かがつけた靴底のパターンに顔を近づけ、心が要求してくる全てのオーダーに応える準備を始めた。いい大人だけどかまうもんか。ここでどれだけ醜態を晒そうが、そのまぬけぶりがネットの海にばらまかれることはない。
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