蛍の飛ぶ夜

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実際、私はこの時さっきまでの蒸し暑さをまったく感じていなかった。 今思えば不思議なほど涼くて、風もないのに汗はすっかり引いていた。 辺りはしんと静まり返り、聞こえるのは川を流れる微かな水音、見えるのはぼんやりとした彼のシルエットと無数の蛍だけ。 どこかで花でも咲いているのか、甘ったるい香りがほんのり漂っている。 幽玄の世界というか、まるでこの世じゃないみたい。 そう思った瞬間、私は少しだけ怖くなった。 何も怖いことなど何もないはずなのに、急に背中を冷たいものが駆け抜ける。 「そろそろ帰ろっか」 不安な気持ちを打ち消すように、敢えて明るく言ってみる。 しかし彼は何も答えない。 プロポーズするつもりがあるから、もう少しここにいたいのだろうか。 でも私は申し訳ないけどそれよりも、急に明かりが恋しくなってしまった。 闇が、しじまが、ひしひしと迫ってきて押しつぶされそうになる。 胸が詰まって息苦しい。 「ね?」 答える代わりに彼は私の手を握り直し、また歩き出そうとした。 「え、どこ行くの? もう帰ろうよ」 その先は森か山か、もはや木々の影さえも見えない尚一層の暗がりに、彼は躊躇いも見せず流れるような足取りで向かっていく。 つられて2.3歩進んだところで、突然私のバッグからポロロンと軽快な音が聞えた。 LINEの着信音だ。
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