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夜に酒を飲みにいくのが好き、という趣味は子供のいる主婦にとって途端に難易度があがる。しかし、彩子さんはたまに出かけることを許されていた。我が子同然に嫁の彩子さんをかわいがってくれる姑さんは、彩子さんの娘である春香ちゃんが小学校にあがった頃から、本来であれば二十四時間三百六十五日の全部が主婦である彩子さんに息抜きできる「お休み」をくれるようになったのだ。
近所に住み、孫がいるとは思えないほど若々しい彼女は「たまには友達と遊びに行ったり、ひとりの時間を堪能して」と月に一、二度の頻度で春香ちゃんを積極的に預かってくれた。旦那もそのときは春香ちゃんと共に自宅から十分程度の実家に帰り、彩子さんはありがたくその時間を使わせてもらっていた。
その日も「お休み」をもらった彩子さんだったが、約束していた友達は仕事がどうしても終わらず、急に来られなくなってしまった。自分も「子供の熱が下がらない」と彼女との約束をドタキャンしたこともあるので、優先順位の一番を仕事に置いている彼女に腹を立てることもなく、一人で飲みに行くことにした。
暗い空の下をひとりで歩く。夏の近づく頃に吹く肌寒い程度の風が心地よく、自由だな、とぼんやり思った。普段の生活に不満があるわけではなく、自分は過ぎるほど幸せだと思う。かわいい娘。理解のある旦那。優しい姑。本当に、願ったようなすべて。
長くこの町に住んでいる彩子さんは、旦那と結婚する前にはよくひとりでも行っていた、線路沿いの小さな飲み屋に向かった。昔からおじいさんとおばあさんだったような老夫婦がこじんまりとやっている店だ。
「いらっしゃい。久しぶりね、彩子ちゃん」
「お久しぶりです」
前回訪れたときとあまり変わらない様子のふたりに迎えられ、カウンターに通される。大きくはない座敷の席の方は珍しくサラリーマンの団体で賑わっていた。
(今日は混んでるなあ)
頼んだつまみをつつきながらビールを飲んでいると、隣の席に老人が座った。彼をちらりと横目で見て、彩子さんはどこか不自然だと思った。だがそれが何に由来するのかはわからなかった。
本当はのんびりと顔見知りの店主夫婦と話せたら嬉しかったけれど、今日は珍しく満席の客に対応するので忙しそうだった。それもあって、隣の老人が話しかけてきたのも彩子さんはちょうどいいと思ったのだそうだ。
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