人魚の歌姫

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 人魚姫はそのまま人間が暮らす街の近くの海岸に打ち上げられてしまいました。  艶やかだった髪はボロボロに絡み、白く美しい肌はあちこちに打ち付けた跡や多数の切り傷が見られ、血がにじんでいるところもあります。  下半身からは、うろこが剥がれ落ち、身の部分が露出しているところもありました。  このとき、人魚姫の捜索は必死に行われていましたが、人間の集落に近寄る人魚はいませんでした。  それは、人間の世界では、人魚の肉が不老不死になる力があると信じられていたためでした。  人間に見つかってしまうと、殺されてしまう可能性が非常に高くなります。  人魚姫がいないと困るという気持ちがあっても、自分の身はかわいいものです。  結果的に誰も人魚姫を見つけることはできませんでした。 (もう動くことはできないでしょう。人間の暮らす地域に打ち上げられてしまった以上、私は覚悟を決めなければなりませんね)  体のあちらこちらに負ったケガの痛みから、意識を手放すことができない人魚姫は、痛みに耐えながら、自らの死を覚悟したのです。  必死に体を動かして、海岸から海へと帰ろうともがき続けても、力が入らないために動くことができません。  人魚は泳ぐことには適しているものの、陸を動くことには向いていないのです。  それに加えて、満身創痍の状態では、動くことができるはずがありませんでした。  今はまだ薄暗い海岸も、嵐が収まり太陽が顔を出せば、人間の目に留まってしまいます。  その場合、捕まるか殺されるかしかないことを、人魚姫は本能的に理解していたのです。  嵐が勢いを落とし始めた頃、人魚姫は段々意識が遠のいていました。  人間に見つかる前に、命が尽きかけていたのです。  そのとき人魚姫はふわりとした浮遊感を感じました。誰かに抱き上げられたのです。  薄れる意識の中で人魚姫が感じたのは、優しくほのかな香りでした。 「まだ生きているようだな」  遠くに聞こえる声はとても優しく、人魚姫の耳に心地よく届いていきます。  朦朧とする意識の中で、重い瞼をうっすらと持ち上げると、とても気品のある青年が微笑んでいたのです。 「人魚にとってこの地は危険だ。嵐の夜に海も地上と同じように荒れていたのだろうが、もう流されてはいけないよ」  立派な衣服に身を包んだその青年は、それが濡れることも気に留めず、自ら海へと入っていきます。  青年の背丈から考えても、かなりの深さになる場所まで人魚姫を運ぶと、海へ帰してくれたのです。 「人魚は我が王家の至宝。嵐の夜に海が穏やかなのは、君たちのおかげだ。いつもありがとう」  この国では、嵐に襲われても海が荒れないのは、人魚がいるからだと信じられていました。  国を挙げて人魚を守ってはいるものの、人魚を狙うものは後を絶ちません。  時々ある酷い嵐の夜には、人魚が打ち上げられることがあり、王族たちは人々が出歩く前に、海岸を見回っていたのです。  ですが、この二人の出会いは、起こるべきではありませんでした。  青年も、人魚姫も、一目で恋に落ちてしまったのですから。  住むべき場所が違わなければ──二人は結ばれていたのかもしれません。  傷を負いながらも、青年に助けられたことで人魚姫は仲間の元へと戻ることができました。  深い傷を癒すために歌っても、自分自身を癒すことはできません。  傷の痛みに耐えながら、人魚たちが幸せに暮らせるように、海が穏やかであるようにと祈ることしかできませんでした。  それが、最初の綻びでした。  人魚姫は、心変わりをしてしまったのです。  助けてくれた青年のことを、ときどき思い出すようになりました。  それに付随する感情はとても温かく、時折切なさを運んできます。  人魚姫は、自身が抱く感情の理由を分かっていたけれど、同時に結ばれてはいけないことも分かっていました。  それでも止めることのできない想いが向かった先は、人魚たちのために歌うだけではなく、地上にいる青年の幸せを願いながら、歌うことだったのです。  そのせいか、海だけでなく、地上も穏やかな気候へと変わっていったのです。  それは、世界にとっては望ましいことだったでしょう。  しかし、人魚たちにとっては望ましいことではありませんでした。  とくに老齢の人魚たちは、人間を思って歌を歌うことを良しとせず、今すぐにやめるようにと注意をしました。  そのときには、「分かった」と素直に聞き入れるものの、時が経つとまた青年のために歌い始めるのです。  だからといって、海の生物をないがしろにしているわけではありません。  人魚姫にとって、それは慈しむべき存在なのです。  海が穏やかで、みんなが幸せであることが、人魚姫にとっては大切なことでした。  だけど、その中のほんの少しの時間、遠く離れた場所に暮らす青年を想って歌を歌いたいと願っただけなのです。  例え結ばれることがなくても、幸せでいてほしいと願ったから──。  しかし、それを老齢の人魚ほど、受け入れることはできませんでした。  人間は、人魚にとって敵でしかないと思っているのだから。  人魚姫がいつか海のことを考えなくなってしまうのではないかという疑いの気持ちが、人魚たちの心を支配するようになっていきます。  その感情から、次第に人魚姫は責められるようになっていったのです。  最初は一部だったその声は、やがてほとんどの人魚に広がっていきました。  しかし、どれだけ責められても、人魚姫は地上のことを思いながら歌うことをやめようとはしません。  海の平穏を祈ることをやめることはないと、人魚たちに伝え続けるだけだったのです。  それは本心でした。しかし、それを理解してくれる人魚はいません。  時が経つほどに理解者は減っていき、人魚姫は「裏切り者」と蔑まれるようになっていきました。  それでも、人魚姫は歌うことをやめることはありません。  海が荒れることのないように、みんなが幸せになれるように、歌を歌い続けているのです。  そのため、海は穏やかで、平和な日々が続いたいたのです。  どれだけ種族の幸せを願っても、人魚たちの疑いの心までは晴らすことができません。  人魚姫の歌声で海が平和になることがあっても、人魚の心を支配できるわけではないからです。  やがて人魚姫は、暗い暗い深海へと追い出されることになりました。  そこは光が届かない陰気臭い場所、そして、醜さから疎まれた生き物たちが集う世界でもありました。  人魚姫は、深海の岩場に鎖で繋がれ、身動きを取ることさえ禁じられたのです。  深海の魚たちは、そんな状態の人魚姫を見ても、関心を抱くことはありませんでした。  暗くて見えることがないのかもしれません。  また、一定の距離を取り合う暗黙のルールがあるのかもしれません。  だけど、その距離感が心地よかった人魚姫は、鎖で繋がれても歌い続けるのです。  この深海が穏やかでありますようにと。  ですが、ひとつだけやめてしまったことがあります。  それは、人魚たちが幸せであるように祈りながら歌うことでした。  どれだけ大切に思っても、どれだけ幸せを祈っても、その思いが届くことはありませんでした。  嫌われ疎まれ罵られ、故郷を追放された人魚姫は、いつの間にか、人魚たちのことを恨むようになっていったのです。  その一方で、誰にも咎められなくなった人魚姫は、大切なあの人の幸せを祈り、歌うことが増えていきました。  その歌声はもの悲しく、深海へと響いては消えていきます。  大切な人へと届くことはありませんでした。  それでも、人魚姫は構わなかったのです。  あの人が幸せならば、それでいいと割り切っていたのだから。  人魚姫を追放した人魚たちは、その後過酷な環境と戦うことになっていました。  人魚姫が歌うことで穏やかに保たれていた海は、もうどこにもありません。  いつも荒れていて、泳ぎがヘタな人魚は容赦なく、地上へと打ち上げられていきました。  打ち上げられる土地には、人魚を大切にする習慣などありません。  殺されて肉を奪われ、不老不死の薬へと姿を変えたり、巨大な水槽へと移されて見世物にされるなど、不幸な人魚が増えていったのです。  姿が美しく、上半身が人間と同じ姿をしているという理由から、性欲のはけ口にされる人魚も少なくはありませんでした。  人魚姫がどういう感情を抱いていても、大切な存在だと気づいたときには、人魚姫は「人魚」という種族を恨んでおり、幸せを祈って歌うことはありませんでした。  そして、人魚は個体数を減らしてゆき、種として存続していくことができなくなったのです。 a8412724-4535-4bf7-a809-c1ad112b4127
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