第一章

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 取り出して眺める。小振りの物だったので片手で持つことが出来た。それを背中に隠して身構える。攻撃しようなんて思わない。ただ、何かしら持っていないと心細かったのだ。  私は今まで狂人を目の当たりにしたことはなかった。だからそういった人間が何をしてくるか、どういう風に害を及ぼすかまだ分からない。分からないから怖い。父も母の留守を狙っては私の身体を押さえつけてそれなりに酷いことをしてきたが少なくともあの男とは違って正気だった。喜怒哀楽もはっきりとしていた。  それなのにいつからだろうか。父が一時も笑わなくなったのは。ある日突然に私への暴力も止んで、取り憑かれたような表情で部屋にこもりっきりになったのは一体いつからだっただろうか。はっきりとしていたのは、それでも父はまだ狂ってはいなかったということだ。  私への仕打ちを知らぬ母は抜け殻のようになってしまった父を見て嘆き悲しんだ。母の目には優しい夫だけが映っていた。私にだけ見せた父のもうひとつの顔を知らないから。
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