この想いは蜜よりも甘く~1、男の気持ち~

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結婚したい男の気持ち  恋人が乗車しているであろうバスを一目見るためだけに、わざわざ仕事を中断させて、働いているフロアから階段を使って、五階下りた場所から外観を眺める。  窓ガラスに額を擦りつけて、川の流れのように環状線を走る車の天井を必死に追う姿は、どこから見ても異様に見えるものだが、本人はそれどころじゃないので、まったく気にならなかった。そんな外野の視線よりも、外回りが早く終わってこの場にスタンバイできたことに、心の底から喜びを噛みしめる。 『今日はいつも通り定時で帰ります。恭ちゃんは間違いなくお仕事だよね?』  午後三時に送られてきたラインからのメッセージを読み、テンプレートになっている文章を、眉根を寄せながら渋々書き込んだ。 『残念ながら仕事。一緒に帰れなくて寂しい』  男の名は榊恭介(さかききょうすけ)、28歳。勤務先はマイスター・フェニックス証券という、外資系の企業だった。185センチの長身に仕立てのいいスーツを身につけ、会社の命令で髪形はびしっとオールバックにしている。  端正な顔立ちなのに日々の疲れが顔色に表れるせいで、年齢よりも上に見られることが多かった。しかし信用を第一にしている仕事をしている以上、老けていたほうが童顔の同僚よりも、お客様を確保することがスムーズに捗ったりする。  離職率が七割と辞める人間がトップクラスで多い業界だが、ひとえにノルマ達成を目指しながら榊は頑張っていた。 『働いてる恭ちゃん、カッコイイ!』なぁんて恋人に言われるために――。  新入社員で入社したときは、個人相手の営業から仕事をはじめた。もちろんツテなどないゼロからなので、お客様をつかまえるだけでも大変な毎日だった。一日中電話や突撃お宅訪問を繰り返しても、相手にしてくれないなんてことは日常茶飯事で、躰は疲れなくても精神的につらくて、何度も辞めたくなった。  フラフラになって帰宅した榊の癒やしは当然、一緒に暮らしている恋人だった。  恋人の名は、高木和臣(たかぎかずおみ)。幼稚園時代は肌の色が白く背も小さくて、子豚のような容姿だった。そんな和臣を苛めから救ったのがきっかけで、いきなり友達になった経緯がある。 『臣(おみ)たん』『恭ちゃん』と互いを呼び合ってなかよくしていたのだが、小学校にあがった途端にクラスの女子から、そのあだ名で呼ぶのは恭介らしくないと指摘されたので、仕方なく下の名前で呼ぶようにした。  でも本当は名前よりも『臣たん』と呼んでいたかった榊は、心の中でコッソリ呟いていた。自分の隣でおなかのお肉を弾ませながら、頬を緩ませてニコニコするかわいい和臣は、はじめて逢った頃の『臣たん』だった。  そんなかわいい和臣の容姿が突然変わったのは、一緒に受験して合格した中高一貫の男子校に入学後すぐだった。身長が伸びると同時に躰の贅肉も伸びたお蔭で、スタイルが見違えてしまった。頬についているぷよぷよしたお肉もいつの間にかなくなり、シャープな顔立ちがあらわになった。  整形疑惑まで噂された和臣の美少年っぷりは、男子校の中で格好の餌食に早変わりし、榊は必然的にボディガードのように和臣の傍にいた。  幼稚園時代と変わらず、いつも一緒にいる間柄に変化が起きたのは中学三年の休み時間、トイレに行ったときのことだった。  先に用を済ませた榊を追いかけるべく、すぐにやってくると思った和臣がなかなか来ないことを不審に思い、引き返そうとした直後、躰に強い衝撃が走った。原因は自分よりも小さな塊が、縋りつくように抱きついてきたからだった。  着ている開襟シャツのボタンは半分外れた状態になっている上に、さくらんぼ色した唇は荒い呼吸を繰り返していて、尋常でないのが見てとれた。 『助けて、恭ちゃん……』  ガクガク小刻みに震えながら和臣に懇願されたというのに、榊の頭の中では『ヤって、恭ちゃん』と脳内で変換されてしまい、ヤバいとひどく狼狽えた。  大事な幼なじみを襲ったヤツと同じ気持ちになってしまった理由は、和臣の潤んだ大きな瞳に気持ちが煽られたことと、開襟シャツから少しだけ見える胸元が、妙な色香を放っていたからだと推測した。  庇護欲をそそる対象から、性欲をそそる対象になってしまった幼なじみ。純真無垢な笑みを見るたびに、榊は激しい衝動に駆られた。悶絶しそうなほどのかわいらしさを心で感じる一方で、犯してしまいたいという淫らな気持ちが躰に募っていった。 (――和臣とこのまま一緒にいたら、間違いなく傷つけてしまう)  そんな判断から、大学は地元じゃないところを受験した。そうして和臣から離れることを決心し、潔く別れようとしたのに。 『恭ちゃん、気持ち悪いって思うかもだけど、僕は恋愛感情で恭ちゃんが好き。ずっと好きだったんだよ』  高校の卒業式。校舎横にある大きな桜の木の下で、はらりはらりと舞い落ちてくる花びらを眺めていた。本当は大好きな幼なじみと一緒に見たかったけど、別れがつらくなると思い、あえてひとりきりで榊は佇んでいた。  するとそこへ頬を真っ赤に染めた和臣が息を切らして駆け寄るやいなや、大きな声で告白してくれた。自分が身につけていた第2ボタンを大事そうに、両手で掲げながら――。  和臣の心臓の傍にあった第2ボタンを榊は嬉しさを噛みしめながら手に取り、ぎゅっと握りしめた。  離れることしか考えつかなかった榊を引き止めた和臣の顔は、涙に濡れてぐちゃぐちゃだったが、今まで見た中で一番きれいなものだと感じた。 『俺もずっと和臣が好きだった。大好きだ』  榊は胸の奥底に溜め込んでいた想いを告げて、愛情を示すように抱きしめる。その気持ちに応えるように、和臣も両腕を回して抱きついた。  そんなふたりを祝福すべく、桜の花びらが一層降り注ぐ。  お互い腕の力を少しだけ抜いて顔を見合わせたら、和臣の涙の痕に花びらが一片だけついていた。その感じが、自分よりも先に桜の花が和臣にキスしたように思えてしまい、榊の嫉妬心に一気に火がつく。  きれいな輪郭を描く頬からやんわりと花びらを外して、そこに唇を押し当てた。 『き、恭ちゃん!?』  榊の突飛な行動に驚き、躰に回している腕を振りほどいて後ずさりした和臣。しかし桜の太い幹が背中に当たり、その動きを止める。 『和臣、付き合うって言うのは今みたいなことや、他にもするってことだ。できる、できない?』  優柔不断な性格の幼なじみをよく知っている、榊からの質問。必ず二択を用意して、和臣の答えを導き出した。 『きっとできるよ。恭ちゃんが一緒なら大丈夫』  目元を赤く染めて勇気を出し、質問に即答した恋人を見下ろしながら、壁ドンならぬ桜の木に腕を突き立て、はじめてキスをかわしたあの日から、今年で十年目になる。  同性婚の実施が半年後という情報を、外回りしていた出先で知った。 『こんな法律が施行されたら、少子化がますます加速していきますよね』  なんていうお客様からの率直な感想を聞き、榊は相槌を打ちながら苦笑いを浮かべた。しかし心中複雑だったのは言うまでもない。  同性愛者の自分にとってはとても喜ばしい法律なれど、世間一般の意見としては理解し難いものがあるんだな、と――。  榊はそのことを思い出し、胸の中に鈍い痛みを感じたタイミングで視線の先に映ったのは、赤い色をした長方形のバスの天井だった。和臣が乗ったバスが今、ビルの前を通過しようとしていた。  たとえ姿が見えなくても、榊はそこに恋人の存在を感じることができた。なぜなら和臣も建物の中にいる自分に、心を寄せているから。 「臣たん……」  ひとりきりでは心は生まれない。想う相手がいることによって、はじめて心は生まれ愛情が育まれていく。  榊は通り過ぎたバスを名残惜しげに見送り、窓ガラスから顔をあげると頭を振って、仕事モードに気持ちを切り替える。少しでも早く帰るべく、厄介な残務処理を手早く終えるために、気合いをいれたのだった。 【続きは製品でお楽しみください】
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