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 風邪予防のマスクから息が漏れて、度のないレンズが白く曇った。黒縁眼鏡を指でずらして、日比野和希(ひびのかずき)は夜空に伸びる桜の枝を見上げた。  年度末の金曜日。珍しく残業で遅くなった。昼間の温かさが嘘のような花冷えの夜。  薄いコートを羽織った和希は、肩をすくめて細い腕をさすった。短く整えた黒髪に白い花びらがひとひら落ちる。  公園を横切る遊歩道に足を向けかけ、入口で立ち止まった。園内がいつもより暗かったからだ。  奥の街灯が一つ切れている。 (どうしよう……)  十日ほど前、役所の同僚がこの付近で暴漢に襲われたことを思い出した。大きな怪我はしなかったが、財布を盗られた。  けれど、公園を迂回すると倍以上の時間がかかる。少し迷って、和希はそのまま暗い小道に足を踏み入れた。  桜の横を通り過ぎ、ツツジの植込みの角を曲がった時、突然にゅっと人の影が目の前に現れた。ドキッとして一歩下がると、後ろにも誰かがいた。  ごくりと喉が鳴った。  前方の一人が右手を出して短く言った。 「財布」  闇の中に歯の欠けた顔が浮かぶ。髪は金色。ひどくやせていて、まだ子どもと言っていいほど幼く見える。平均身長の和希より少し小柄だが、まとう空気は鋭かった。 「聞こえないのかよ。財布」 「さっさと出せよ」  背後の男が和希を蹴った。身体がビクリと跳ねる。相手を観察する余裕はあるのに、それだけで和希は動けなくなった。  ドキドキと騒ぐ心臓の音を聞きながら、怪我をするくらいなら、財布でもなんでも渡してしまえと思う。下手に逆らっても怪我をするだけだ。  なのに、薄いコートに手をかけられた瞬間、その手を反射的に払いのけていた。  まずい、と思ったが、もう遅かった。
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