西戸崎の海岸で

2/2
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
ひとり杖をつき歩く。 ゆっくり、ゆっくりと。 あの日、あの瞬間を思い出すように歩く。 『必ず帰ってくる』 そう約束した。 西戸崎の海岸で。 【母なる、生命の源の海】で貴女と。 私は国のために死ぬのは嫌だった。 周りは誰も何も言わないが、ついこないだまで学生として、学舎で自由に勉学に打ち込み、青春を謳歌していた。 しかし、急にペンを銃に変え戦えと。 親や兄弟、親類のため、勇ましい言葉を吐く自分。 嫌だった。 だから、貴女にはこの海で本当の気持ちを伝えた。 「俺は必ず帰ってくる。生きて、生き抜いて帰ってくる」 貴女は私の前を歩いていた。 「そう」 一言返事がきた。 それ以上、何も言わなかった。 ただ、浜辺を歩いていた。 白のワンピースに、白のつばの大きな帽子。 このご時世、こんな格好は珍しかった。 贅沢は敵。そんな風潮だったし、もとより手に入らなかった。 しかし、貴女は自分を変えず生きていた。 そして、周りから【言われない】、そんな【家】であった。 帽子が飛ばないよう左手で帽子を押さる。 ふと立ち止まった。 貴女は海を見つめた。 横顔が見えた。 嬉しさも悲しさもない横顔。 ただ、海を見つめる瞳。 沈黙が続く。 辺りは誰もいない。 ただ、波の音だけが浜辺を包み込んだ。 苦しい。 沈黙が辛い。 私はこの苦痛から逃げ出すため口を開いた。 すると、私より先に貴女の口から言葉が出てきた。 「知ってます?生命は海から誕生したんですって。難しいことは私は分からない…けど、海は【母なる、生命の源】なんですって」 貴女はそう言い、私の方へ振り向いた。 「生きて帰って来て下さい」 貴女は笑顔で言った。 その笑顔は夕陽に照され、美しくもあり、儚い、今にも消えてしまいそうな…そんな笑顔だった。 私は今でも思い出す。 この西戸崎の海岸を歩くと。 貴女を思い出す。あの日の美しく、そして儚い笑顔を。 貴女はいない。 私は帰って来た。 でも貴女はいなかった。 生きているのかどうなのかすら分からなかった。 探したが…広島に行った。 それが最後の足どりだった。 美しい貴女。 儚い貴女。 消えてしまいそうだった貴女。 私は今でも貴女を思い出す。 この西戸崎の海で。 【母なる、生命の源の海】で貴女を。 私はまたゆっくりと杖をつき歩き始めた。 ゆっくり、ゆっくりと。 貴女を噛み締めるように。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!