深緑の夜に

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 ところが俺は、あっさりあの人に連絡することになる。  別れを決めるのと同じ頃、あの人と一緒に働いていた会社も、何だか俺自身の成長には邪魔な感じになってきた。あの人に関することでも、自分自身のことでも、いろいろなことが丁度よかったのだ。俺は退職を決め、上司に相談した。退職はあっさり承認された。ボーナスを受け取り、有給休暇を消化し、あの人から遠ざかることに成功した。  転職先もあっさり決まった。あまりにとんとん拍子に話が進むので、俺自身が取り残されたような感覚に陥った。転職先では、どうやら俺は高評価だったらしく、札幌での研修後、東京での上級者研修のようなものに出向くことになった。1カ月間、みっちりビジネスホテルに泊まり、朝から晩まで座学、やがて実地研修、課題レポートの作成、提出、発表。気持ちいいくらいにめまぐるしかったが、焦点の合わない努力をしているような気にもなった。明るい未来にいる俺とか、めんこい彼女とドライブとか、そういうのがまったく見えない日々だった。とにかく自分の中でのギリギリのラインまで集中力を発揮し、それが切れると、カビ臭いビジネスホテルのベッドに気絶するように転がった。東京には友だちが何人か住んではいたが、積極的に誰かに会う心境にはなれなかった。  そんな東京での、ある春の休日、俺は長い眠りから目覚めた熊みたいな気分の朝を迎えた。自分がどこにいるのか、一瞬わからなかった。カーテンを開けて、窓の外を眺めた。ビルの谷間から見える小さな空は、それでも明らかに気持ち良さそうな、くっきりとした快晴だった。時計を見ると、まだ二度寝をしても十分な時間だったが、気分は良かった。白湯を飲むために小さな電気ポットで湯を沸かし、タバコをくわえながら空を眺めた。湯が沸き、スイッチが切れた音と同時に「そうだ、神宮球場に行こう」と思った。東京には神宮球場があり、俺は小学生の頃からスワローズのファンだった。あまりにバタバタしていて、自分が東京にいることと、東京には神宮球場があることが、まったく線を結ばなかったのだ。
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