深緑の夜に

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 札幌という街は俺にとって、イラっとさせられる街だ。クソくだらねぇ業界の会合に先輩の代打で出ることになり、札幌出張を命ぜられ、ここにいる。少し前まで、住んでいた街。  友だちがいればまだマシだったが、運の悪いことに出張が急だったこともあって、誰ひとりつかまらなかった。ハンパに知っているだけのヤツに会うくらいなら、コンビニでおにぎりでも買って、ホテルに戻り、オナニーでもして、とっとと寝たほうがよっぽどマシな時間の潰し方だ。  会合のあったコンベンションホールから泊まっているホテルまで、大通公園を挟んでまっすぐ歩く。建物を出ると、近くの植物園から深い緑の匂いがした。まとわりつく匂いが、俺をイラつかせ、甘く惚けさせる。封印した記憶が、熱く、腹の奥のほうから湧いてくるのを感じる。街路樹の葉が、かすかな風に揺れるのを眺めていた、あの人のことを思い出す。しゃーない。ここは札幌だ。  大通公園を過ぎ、電車通りに出た。セブンイレブンがあった。おにぎりを買おうと思うのと同時に、前に来た店だったことを思い出した。電車が、ふぁん、と警笛を鳴らして俺の前を過ぎて行った。ムカムカした。思い出す自分にムカついた。過去なのに、俺の選択は正しいのに、俺は記憶を「今」に引きずり込もうとしている。記憶が「セブンに入らず、右に曲がれ」と俺に告げる。「振り返る、ってのも悪くないぜ」と記憶が俺に囁きかける。 「完全に終わってる話じゃないか。完結した記憶の、甘く、柔らかく、温かいところだけを反芻するってのも、悪くないぜ」  記憶が言う。 「思い出を振り返る、ってのは、生きて、死んでいくためのプロセスのひとつだ。大げさに、頑なに拒否することでもねーじゃん。この道、右に曲がって行くべって」  記憶が俺の背中をそっと押す。それもそうだな、と、俺は記憶に同意する。人生長いんだ。過去をボンヤリ振り返るのも悪くない。どうせホテルの部屋に戻ったところで、日常的なオナニーでもして、寝るだけなんだから。  電車通りに沿って歩くと、交差点の向こうに、グレーの古い建物が見えてくる。あの人が信号待ちをしていて「あ!」と指差し、行きたいと言い張った、喫茶店のある建物。信号を渡る。いくつかの店舗が入ったビルだ。目線の少し上に、白地に緑の文字の看板が見える。
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