深緑の夜に

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「喫茶 25歩」  左に曲がる。「喫茶 25歩」と同じデザインの看板が闇に白く光り、浮かんでいる。定休日なら、あきらめもつくのにな、と一瞬思う。あきらめって何だよ、と俺は自分にツッコむ。そういえば、初めて、あの人に連れられて来たときもそう思った。でも、その店は、あの時も、今日も、俺を、俺たちを、静かに待つように営業していた。  深緑のドアを開ける。白い壁、電球の灯り、高い天井。窓が開いていて、昭和の時代の扇風機が置いてある。キッチン側のカウンターに男の客がひとり。店のお姉ちゃんがひとり。彼女が店主なのだろうか。あの人と来たときにも、彼女がいた。俺は窓側のカウンターに座った。あの人と来たとき、ちょうど今くらいの季節に来て、やはり座った席だ。電球、和文タイプで打ったようなメニューのPOP、L字のカウンターのところどころに、無造作に本が積まれている。あの人も、その背表紙を指でなぞっては、満足そうに、楽しそうに手にとっていた。  店のお姉ちゃんが水のグラスと一緒に、黒い、小さな出席簿のようなメニューを持ってきた。コーヒーでいいや、と思いながら、選ぶでもなしにメニューをめくり、眺めた。  コーヒーは「珈琲」と書かれ、煎り方によって「するり」「さらり」「ごくり」とあった。そうだ。これを指差して、あの人は喜んだ。「ステキ」と。おとなしい小学生の女の子みたいに。静かで柔らかそうな笑顔を俺に向けた。そのとき、あの人は珈琲とあんみつみたいなものを食ってた。目の前のPOPを手に取り、表裏を見た。片面にナポリタン、もう片面に「珈琲汁粉」が載ってた。あのとき、あの人が食ってたのは、これだ。珈琲汁粉。ひとくち横取りした。そんなこともあった。メニューをめくる。「おやつ」というページ。無難にチーズケーキでも食おうかな、と思った。あのとき、俺はノリでプリンアラモードを食った。多分、スマホの中に、そのときに写した写真が入っている。あの人を撮った写真は全て削除したが、あれは多分残ってるだろう。もう探さないけど。  店のお姉ちゃんが注文を取りに来たので、結局、中煎り珈琲の「さらり」と「珈琲汁粉」を頼んだ。今日はそんな食い方をしても、いいんだと思った。人生で、過去を振り返る時間が少しあったところで、悪いことじゃない。
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