深緑の夜に

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「タバコ、吸えんだっけ?」と姉ちゃんに訊くと、外に灰皿があるから、そこで吸うようにと案内された。そうだったよな、あの時もそうだった、と思い出した。俺はずい分、どうでもいいことばかりを記憶してる。どうでもいい記憶ばかりを仕舞った箱を、今日は開ける日なんだろう。風を通し、軽いものは風に乗せて飛ばしていくのだ。  外に出て、灰皿のそばに立って、タバコに火をつけた。札幌の夜。俺の心の中の深い場所で、気が狂いそうな叫び声を上げてる奴がいるのを感じる。遠くから市電の警笛の音が夜に紛れて聴こえる。立ち上るタバコの煙の向こうに、ビルの谷間の星空が見える。俺はふたつの時間の端に立っていた。今と、あの人と生きた時間の、ふたつの時間だ。  あの人を愛しいな、と感じるとき、思い出すのは、まず、匂いだ。オフィスでは、さっぱりとした匂いの香水をつけていた。ほんのかすかに感じられる程度に、ふたりでシャワーを浴びるときに、ようやく感じられるような。ナポレオンが使っていたとかいう香水。そこらのドラッグストアに売っているものじゃなく、イタリアに本店がある香水屋のものだ。それを膝の裏にシュッとひと吹きするんだと言っていた。ときどき俺は、服を脱がせる前に膝裏を嗅いだ。深い森のような緑の中に、かすかにバニラのような甘い匂いがした。そうでなければ、花の匂いや、刈りたての芝生の匂い、ものすごく高級そうな線香の匂い、普段は嗅いだことがないような珍しい柑橘系のくだものの匂い。そういうのが肌や髪に、そっとのせられていることもあった。アロマオイルの匂いなのだ、とあの人は言った。あの人の、うなじや、首筋や、肩の匂い。腹や、おっぱいの匂い。  おっぱいは、柔らかかった。  俺はいくつかのおっぱいを知っていて、どのおっぱいも好きだったが、あの人のおっぱいは、他のどの子のおっぱいとも大きく違うところがあった。ふわふわと、柔らかかった。ふわふわ過ぎた、とも言える。あの人はそれを年齢のせいだ、と言った。若い頃と比べると、ずい分感じが変わったのよ、と。  きれいな形だった。
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