深緑の夜に

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 垂れてるわけでもなく、大きかったけれど、過ぎることもなく、女性的で、母性的だった。俺たちはよく「漢字の形」の話をしてたけど、あのおっぱいは「乳」という字の美しさそのままだという感じだ。「乳」という漢字を書き続けると、俺の頭の中には、乳白色の、光を放つような、柔和な形が見えてくる。白く丸い大理石でできた、神聖な小さな祠のような。「乳」の話をしたとき、ふたりで心ゆくまで「乳」とか「乳房」という字を紙ナプキンなんかに書き続けた。あの人も、照れることもなく書き続け、静かに「いいわね」と言った。「ちょっとした神さまみたい」と。  あの人の身体丸ごとが「ちょっとした神さま」みたいだった。隅から隅まで、おっぱいの持つ力を満たしたような身体だった。あの人は、おっぱいみたいな人だった。  あの人が俺の視野に、鮮やかな色彩をもって現れたのは、あの人が音を立てなかったからだ。  あるとき、他の女と違う、と気づいた。気配がなさすぎた。気配がなさすぎて、それはある種の「殺気」にすらなっていた。一見すると、年齢の割に、そこそこキレイで、まあ色気もあるがイヤミではなく、仕事のときは男と変わらないような切れ味。くだらねぇ話をしてても、そこそこいい感じの、年上の人。年上過ぎて、射程距離に入らないくらいの。でもそれは、あの人だけじゃない。感じのいい年上の女はいくらでもいた。気持ち悪いのも、まあ、いたけど。  あの人の「抑制」は、ちょっと特別だった。しぐさのいちいちに目がいった。立っているだけで静かで、静か過ぎて、かえって俺には目立った。ほんの少し首をかしげてるだけで、ものすごく雄弁に何かを語っているみたいに見えた。おかげで目が離せなくなった。指をかすかに動かすだけで、音楽が聴こえてくるような感じがした。当時の俺に自覚はなかったが、俺は彼女に恋をしていたのだ。ひとまわり以上年上の、旦那持ちのおばさんに。恋がある種の丁々発止の闘いなんだとしたら、俺は彼女から発せられる殺気に瞬殺されていた、ということだ。甘く、切ない、負け試合 。
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