深緑の夜に

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 後に俺は会社を辞め、移った職場の男の上司とサシで飲んでいた。俺はそいつのことをあまり気に入っていなかった。だけど、まあ、流れでふたりきりで飲みに行くことになった。そしてノリで、あの人とのことを話してしまった。上司は軽薄そうに笑いながら「ああ、俺もいたよ、そういう女。年上の人妻で、こう、エロい女。いいよな!」と言った。俺はグラスを口に当て、酒を飲むことで、きちんと返事をしなかった。一応、職場の上司だった。俺だって空気を読むことはする。でもグラスを口に当ててなかったら、俺はこう言っただろう。「あの人と、てめぇのブスでバカなブタ女と一緒にしてんじゃねーや」と。でも、どうだろう? 俺とそいつの、どこに差がある? やってたことは人妻との不倫だ。それ以上でも、それ以下でもない。真剣な恋愛? 旦那から奪えもしねぇで、真剣な恋愛? 奪ったところで、もう、おそらく俺の子どもなんか生めないようなおばちゃんとの、真剣な恋愛?  俺の中にいる、心細い小僧みたいなもうひとりの俺が、か細い声で俺に囁く。 「もう終わっちゃったけど、俺、あの人のこと、本当に愛してたんだよ。本当にかわいくて、本当に幸せにしたくて、一緒にいると、俺、本当に幸せだったんだよ」  俺の中の遠くの方で、気が狂いそうな叫び声を上げてる奴がいる。俺は、俺の心の深い場所にいる小僧の頭を撫でるような気持ちで、タバコを灰皿に押し付けて、消し、店の中に戻った。  店に戻ると、珈琲と、珈琲汁粉が来た。あの人はコーヒーをブラックで飲んでいた。俺は必ずミルクを入れた。ちょっと負けた気にもなったが、まあ、俺は、入れないと飲めない。珈琲も、珈琲汁粉も、うまい。俺には時間つぶしのスタバやドトール以外で、コーヒーを飲む習慣がない。あの人は茶碗やスプーンにもいちいち反応した。この店でもそうだった。俺は珈琲をすすりながら、心が静かに、深いところへ降りていくのを感じていた。あの人を抱きしめて、髪の匂いを嗅いだときの気持ちに似ていた。深いところへ降りていく感じ。あの人の髪からは、花の匂いと、深い緑の匂いがして、俺はそれを気に入っていた。パーツごとの匂い。そして、全てを洗い流したあとの、彼女自身から発せられる、甘く温かな匂い。
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