深緑の夜に

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 珈琲汁粉もうまかった。ゆでたあずきと、ココナッツミルク、珈琲ゼリーと、白玉。あの人もいちいち喜びながらスプーンを口に運んでいた。気に入ったものは、うまそうに、集中して、ニコニコと、モリモリ食う人だった。白玉を食おうとしたら、手の甲を叩かれたな、そういえば。あのとき食いそこねた白玉を、俺は、ようやく食えるわけだ。  あの人とは、ずい分いろいろなところに行ったけど、こんなふうに記憶が強烈に蘇ったのは、多分、この店に来たのが、初めてキスした日に来た場所だったからだ。  職場の飲み会が終わり、あの人は酔いを覚ますから歩いて帰ると言った。俺は危ないから送ると言い、あとについた。みんなもそうしろと言い、その場で解散になった。ついて来た俺にあの人は、来なくていいと言い張ったが、俺は心配を理由にあの人について行った。地下鉄すすきの駅の入口で立ち止まって帰るように説得されたが、ふと「ま、いっか」とあの人は言い、ススキノから、この店まで歩いた。あの人はときどきくるっと回ったり、キックしたりして歩いていた。踊っているみたいだった。ほんの少し歩くだけで、手をひらっと動かすだけで、音楽が見えるようだった。顔つきがいつもとまったく違っていた。無防備で、めんこい3歳児みたいだった。  俺たちは、あまり言葉を交わさずに歩いた。気を使って沈黙を埋めるような会話をしなかった、ということだ。すべてがあるがままに完璧で、言葉は言葉になり、沈黙は沈黙になった。札幌の夏のむせ返るような木々の葉の匂いが俺たちの身体をそっと撫でていった。空には丸い月が浮かび、あの人はときどき、あどけなく空を見上げた。俺はそんなあの人を目に焼き付けるように見つめた。俺の視線に気づいたあの人が俺を見た。いたいけで、あどけなく、護られるべき存在として。俺は反射的にあの人の手をとった。手をつなぎ、「うぇ~い」とその手を高く上げた。あの人は声を上げて、ゲラゲラと笑った。俺が今回の出張で泊まるホテルの前の路上で。店に入るまで、ずっと手をつないでいた。ふたりの手は饒舌だった。つないだ手が心臓みたいになって、俺たちの身体を流れるエネルギーを循環させていた。俺たちは手をつなぐだけで、お互いの情報を得ることができた。それが錯覚だとしても、幸福な錯覚の中に、俺たちはいた。
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