CASE.1

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 結局、荷物はもう一袋のリンゴと、父の仕事用に母が用意したお弁当の入れ物、そして、仕事着が入った手提げのバッグだけ。私たち三人が出てくるほどでもないようなものだったが、父は人を身近に置きたがる。寂しがり屋なのだろうと父が酔っていないときには思うのだが、それに対して応えたいなどと思ったことはなかった。これはただの理不尽だ。だから酔っぱらいは嫌いなのだと常々思っていた。  出ていったからにはと三人で手分けして一つずつ持っている間に、父は家の中に入っていく。その後ろ姿を見ながら、次男である兄がそっと私に声を掛けた。 「大丈夫?」 「うん、痛いけど大丈夫」  短いやり取りをしたあと、怪しまれないように私たちはすぐに玄関に向かった。 「どうしたんだ」  私が顔を抑えているのを見て、父がそう言った。その声が、本当に分からずに聞いていることに苛立ちを覚えるが、もちろん、顔に出すわけにはいかなかった。答えないわけにもいかず、おずおずと私は口を開く。 「…リンゴが顔に当たったから」 「あ、当たったのか。そりゃ悪かったな。出てくるのが遅いのが悪いんだわ」  少しも悪いなんて思ってなさそうに、父は言う。 「手ぇ離してみろ」  続けて言われて、そっと手を離すと父が覗き込んでくる。 「なんにもなってねぇじゃねぇか。大丈夫だ」  そう言って、終わってしまった。  なにが大丈夫なんだろう。鏡は見ていないから見た目がどうなっているのか分からないが、麻痺したように左頬は妙に引き攣っている感覚があった。触ると痛みもあるのに。  末っ子長女、それも小学五年生の女の子にこれだ。我が家は狂っている。この男は狂っている。それはこの歳で、もうすでに覚えていないほど昔から思っていたことだった。  私たちは居間にいるよう言われ、父の機嫌ばかりを窺っていた。少しでも父を怒らせないように、ひたすらにビクビクしながら。  母に夕飯を作れと言ったあと、私たちに「肩を揉め」と父が言い出して、そのうちに一人は足の裏を踏んであとの二人は太ももとふくらはぎを叩いてほぐせと言って寝転んだ。父はたまに叩く箇所や強さを指図をしたが、すぐに静かになった。  まだ続く緊張感の中、あぁ良かった、と私は思う。たぶん父はこのまま寝てくれるはずだ。たまにこれでは寝ないときもあるから気は抜けないが、このまま続けていれば、きっと。このマッサージがどれだけ続こうが、父の話し相手をする以上に嫌なことなんてなかった。
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