2020.10.04

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2020.10.04

 こんばんは。有月です。  珍しく、短いスパンで投稿してみようかなと。  きっかけは、中秋の名月です。  先日、私の住む街では雲掛かった、趣深い月が見られました。  そして、SNSのタイムラインに流れる様々な月を眺めながら、日本各地の眺望を同時に楽しめるネットの不思議を思ってみたり。いまの子供達にとっては、なぜそれが不思議なのかが不思議みたいですけど。  ただ、秋の月の美しさを写真で捉えるって、ちょっと難しくないですか。  春の桜、夏の花火、冬の雪しかり。肉眼に映る眺めと撮影した写真を見比べて、首を捻ること頻り。高価な撮影機材を揃えて、適切な時間に適切な場所へ赴けばまた違うのかも知れませんが。  昔、写真を少しやってたんですよ。  銀塩フィルムのマニュアルカメラで。  ただ、写真ってわりと「制約」がありまして。  主に物理的なやつを挙げてみますと、写真を撮るためには撮影者がその場に存在して、シャッターを切る必要がある。  当たり前ですけど、その最たる例が報道写真かも知れません。まずは事件が起きるその場に居合わせないと、話にならない。戦争の実状を伝えたければ、自身で戦場に赴かないと……というのは極端な例としても、富士山のご来光を撮るには、やはり機材を背負って山に登り、適切な地点でその瞬間を待つ必要があります。  それは裏返すと、そうして撮影された写真の価値を裏付けしたりするのですが、例えば健康に不安がある人にとってはちょっと厳しい。航空写真や水中撮影にも似たことが言える。  あとは、ポートレイトを撮るには、モデルさんが不可欠だったり。パリの街角のスナップは、あの街を訪れないと撮れない。それから、過去や未来も撮影することはできません。どんなに優れた写真家でも、織田信長の最期を撮影することはできない。  それが欠点だと言う話ではないんですよ。「その制約の中でいかに表現するか」だというのは認識しています。音楽、絵画、映像などなど、どの分野にもそれぞれ「制約」が存在します。  小説の「制約」は「表現手段に言葉を使う」ってことでしょうか。  そして、私にとってこの「制約」は、逆に「自由」を与えてくれるものに感じられたのです。少なくとも、上述した写真の制約はすべて受けません。代わりに、想像力と筆力が求められますけど。  ってことで、今夜も書いてます。  これくらいしか私にはできないな、とか思いながら。
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