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(あら)
落ち葉を掃きましょうと長ぼうきを取ってきて、また見ると通りの斜め向かいで扉が開いて、中から誰かが出てきたところだった。もうひとり出てきて、二人は挨拶をかわしているみたい。遠くてはっきり見えないけれど、そこの建物はバール・リオンスじゃないかしらと気づいて、わたしはうつむいて掃除をした。それにしても、バール・リオンスは昼にならないと開店しないお店だから、まだ開く前のはずなのに。
わたしには関係ないことだけれどぼんやりそう思っていたら、バールから出てきた人がひとり、通りを小走りに渡ってきた。なぜだか、こっちの方へ向かってくる。左肩へ荷物を引っかけて、何かの紙束を抱えた若い男の人だった。
「すみません。セシル・ルビックさんですね」
若々しい動作とにごっていない目。いきいきした声。その声が呼んだのは間違いなくわたしの名で、わたしはどうして、と腰が引けた。
「あ。申し訳ありません。私はシュレンスの芸術史を研究している者でして、もしよろしかったら少し、ルビックさんにお話をお伺いしたいのですが」
「え……」
「さっき、無理を言って開店前のバール・リオンスにお邪魔していたのですが、その時にマスターがあなたのことを教えてくれました。ティーヴァを知っている人といえば、今はもうあなたしかいらっしゃらないと」
「……ティーヴァ……」
その名前を聞いたとたん、骨の底を砕かれるような心地がして、でもその感覚はあっという間にたち消えになった。年をとるって、悪くないことね。なんでも、どんなことも、過去のものに変わって風化していってくれるから。ついでにそのまま全部、何もかも忘れてしまえたらきっと、もっといいんでしょうにね。
わたしは開けたばかりの店の錠をまたおろして、その男の人と裏のカフェへ行った。もう六十年も来たことのない、カフェ・ジャルダンのテラス席。ここも昔と何も変わっていない。
「本当に、いきなりすみません。お店まで、閉めていただいてしまって」
若い男の人なのに、彼はそんなやわらかい気遣いをしてくれる。わたしが席に腰を下ろした時だって、寒くないですか、なんてさりげなく訊いてくれもした。
「いいえ。うちはお客さまも多くないし、気になさらないで」
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