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少しずつ佐竹との距離が近くなる。馨の緊張が背中に添えた手のひらに伝わる。
そして、横断歩道の真ん中で佐竹とすれ違った時、
「――昨夜はすまなかった……」
川から吹く風に消されそうな声に、俺はハッとその場に立ち止まって後ろを振り返った。佐竹の丸めた背中が人波に紛れて見えなくなる頃には歩行者信号の点滅が始まって、俺は慌てて横断歩道を渡った。
渡った先の橋の袂で馨が遅れた俺を待つように立ち止まって何かを見上げている。その横に立って俺も同じように顔を上げた。
「こんなによく見えたんだね」
そこには今朝まで俺達が情熱的に交わっていた部屋の窓があった。あの時、俺が何気なくあの窓を見上げなかったら、馨とこんな関係にはならなかったかもしれない。
「そう言えば、俺、バタバタしていて今夜からの宿をとっていなかった」
「……よく言うよ。本当は僕の家に転がり込むつもりだろう?」
「ばれてた? だって、うちの会社は馨のところと違って、あんなに良いホテルに泊まれるほど宿泊費は出ないんだ」
「……うちだって出ないよ。あそこは僕が自費で泊まっていたんだ。おかげで夏のボーナス、吹き飛んだよ……」
恥ずかしそうに言う馨の肩に腕をかけて、ぐいっと顔を近づける。にやにや笑う俺に馨は耳まで真っ赤に染まると、「大河といると寒さなんか感じない」と呟いた。
「それは良かった。だって俺は馨の恋人兼専属湯たんぽだからな」
今度は首まで赤く染めた馨の肩を抱いて、俺達は冷たい風の吹く橋の上を意気揚々と駅へ向けてまた歩き始めた。
(了)
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