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「いらっしゃいませ」
神楽木がいつもの顔で迎えてくれる。
静かに上がった口角と優しく緩む目元。
この笑顔が自分をとりこにする、聡子はそう思う。
今日もまた店内に客の姿はない。というのも、定時上がりの聡子だからこそ適う来店時間だからだ。
「今日も私だってわかりました?」
「うーん。そうかもなぁって期待は僅かにあったかな」
ドアが開く瞬間、訪れる客が誰であるかなんとなくわかるのだという。
もっともそれは第六感のような不確かなものではなく、曜日や時間帯、ドアの開け方といった現実的な統計によるらしいが、長年の勘ですかと尋ねた機会に、神楽木の経歴を知ることができた。
脱サラし、二年間都内のホテルのバーで働いた後、この店を開いたらしい。
バーテン歴は学生時代のアルバイトを含めても数年足らずだそうで、だか『客当て』は外れることも多いよ、神楽木は笑ってそう言った。
「聡子ちゃん、いらっしゃい。おつかれェ」
黒いカーテンから賢が顔を出し、奥の厨房から蛍光灯の光が漏れる。
「こんばんは、お疲れ様です」と軽く頭を下げる。
賢がこの時間にいるということは、フード類の仕込みを今日は彼が担当するということで、つまり神楽木はオーダーが入っても奥へ下がらず、カウンターの中にいることができるということでもある。
「いつもので?」
神楽木は押しつけがましくない言い方で、聡子に尋ねた。
「はい」
聡子はいつも一杯しか頼まず、そのオーダーは初めて来店したときの『おまかせ』から変わらない。
親友の甘利葉子を連れて長居するときは二杯目、三杯目を頼むこともあるが、一人で訪れるときはほとんどが最初の一杯だけで店を出る。
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