4.大学のとき相手はまだ小学生だよ、九つ差って

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『どうしたの?』 『なんかあった?』 『あと十分で着くから』  送ったメッセージに返信はなく、既読もつかない。  いつもと様子の違った千次郎に疑問と不安と抱きながら、それらに明確な答えが出る前に聡子は八田駅に着いた。  ドアが開くのを待って電車を降り、小走りで改札を抜ける。  雨は一時的なものではなさそうで、店から出た時と変わらぬ調子で今もしっかり降っている。  水たまりをも気にしない乱雑な足取りがストッキングに撥ねを作り、頼りない折りたたみ傘では十分な雨除けにならず、服を濡らした。  駅からすぐの距離とはいえ、マンションに着くころには息が切れていた。  単身者向けの集合住宅のエントランスは十分な広さがなく、雨宿りには適していない。  雨に濡れた夜の、少し輝きを増した外灯の片隅に千次郎が小さくなって立っていた。 「千ちゃん! 遅くなってごめん!」  少し手前から声をかけると、聡子に気づいて顔を上げた。 「おかえりー」  声も笑顔も少し力ないかと思えば、 「ちょっと! びしょ濡れじゃない! どうしたの!」 「俺こそ電話しちゃって、ごめん。用事あったんじゃ……」  傘と、人ひとり分くらいの雨よけは、他の住人の出入りがあるたびに千次郎は邪魔になって、いちいちそこを退かなくてはならなかったのだろうか。  それにしてもずぶ濡れだ。まるでプールか川に落ちたかのよう。   「そんなのいいんだけど……ホントにどうしたの? なんかあったの? えっと、どうしよう。とにかくウチあがって」 「え。いいの?」  ためらいがないわけではなかったが、千次郎の姿を見れば言わずにはいられない。  話を聞くにしたところで、アンバーまで歩かせることさえ心配なくらいに濡れているし、どこか店に入ったところでこの姿で落ち着けるわけもない。  寒さに震える季節ではないにしても、見た目には寒そうだし、髪などは毛先から雫が垂れている。 「いくら夏だからって、さすがに風邪ひくわ」 「……ありがと。お言葉に甘えてお邪魔します。突然でほんとごめん」  オートロックの中に入ると驚くほどそこはしんとしていて、にわかに緊張する。  エントランスの空気は停滞していて、外よりも蒸し暑かった。 「聡子ん家、四階なんだ」 「うん」  数を増やしていくデジタル数字を見上げながら、長く感じる到着までを待っていると、駅から走ったせいで、背中を汗が一筋流れて気持ち悪い。  小さなかごの中の沈黙はたった十秒たらずの時間だったが、濡れた千次郎と密室に今までにない緊張を感じる。  背後に立つ千次郎に見咎められないか気になった。  汗染みが目立つ綿素材じゃなくてよかったと思う。
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