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その後、営林所の男は私を麓のバス停まで軽トラックで送ってくれた。
こんな軽装で夜中に山の中をうろついていた中年男を、もしかすると自殺志願者と思って気を使ってくれたのかもしれない。
慣れたハンドルさばきでトラックを山道に走らせながら、運転席の男は煙草に火をつける。
「あの沢は『黄金沢』って呼ばれてんのよ。綺麗な沢だろ?」
助手席に座った私は頷く。昨日清流に浸した時の、冷たく心地良い感触が手の平に蘇ってくる。
「地元の人間しか知らない隠れスポットってやつでね。渓流釣りもできるし、秋の終わりまでは見事な紅葉が拝める」
「だから黄金沢って呼ばれて?」
「それもあるが、あそこには近くに狐の住み家があって、よく狐も出るのさ。毛並の良い狐だから、そこから金色って説もあるな。年寄りは今でもあの沢のこと、『狐沢』って呼んだりするもんな」
「狐……」
沢で見た狐のことを思い出す。確かに野生にしては毛並の整った、美しい狐だった。
クラッチを切り替えながら、男は小刻みに片手でハンドルを操る。
「でもまあ、年寄りはあんまりあそこに近づくなって言いよるな。お狐様の祠を建てようって話もあったくらいだから」
「お狐様?」
「ああ。俺あ見たこと無えけど、夜中は狐火行列なんか出るって話だ」
「……鬼火」
「何だ、良く知ってんじゃないの。山にはそういう信仰があんのさ。祟りを恐れる風潮や、不可思議な現象に対する禁忌ってもんがね」
煙草を咥えたまま、男は白い煙を吐き出す。
男の言うことは、どことなく昨日の女の言葉と似ているような気がする。女は確か『人は自分で理解できないものを、畏怖する』と言っていた。
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