1 渓流

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 沢の姿を覆い隠すように鬱蒼とした樹木が沢の両端から生い茂る中、いかにも渓流釣りの似合いそうな清流が姿を現わす。大小さまざまな岩の合間から、幾本もの小さな滝が流れ落ちていく。渓流の透明さが、茶褐色の山の色合いと相俟って美しいコントラストを描いていた。 「すごいな……」  小さな山の中にこんな場所があったのかと、驚かされる。足元に注意しながら緑色の苔の覆う岩を乗り越え、水辺へと近づいて行く。  思ったより沢は大きなものだった。もしかすると近くに滝があるのかもしれない。渓流の幅は七、八メートルはあるだろうか。場所によっては結構な深みもあるようだった。沢を少し覗き込んだだけで、透明な水の中を小さな魚達が泳ぎ回っているのが見えた。 「うん、良い感じだ」  ワイシャツを肘まで捲り、身を屈めて渓流に手を浸してみる。冷たい水が、発汗して熱くなった体に心地良い。  そのまま顔を洗い、水を手ですくって喉の乾きを潤す。こうして自然の水を飲んだのは、子供の頃以来かもしれない。  ふと気付くと、水面に自分の顔が映っていた。  おでこと呼ぶには広くなりすぎた額に、年相応にたるんできた肌。中年と呼ばれる歳になってからは、あまり自分の姿形にこだわらなくなっていた。 「歳を重ねるなりに相応しい姿になっていくのは、けっこう素敵なことじゃないかしら」  それは妻のよく言っていた台詞だ。  しかし結局それも、今となっては空々しい言葉だったのだと気付く。  妻が家を出てからもう一ヶ月が経っていた。離婚届を置いていったところをみると、もう家に戻る気はないのだろう。  私はもう一度、顔をばしゃばしゃと乱雑に洗った。
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