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ハンカチで拭いながら顔を上げると、対岸の岩の上に一匹の狐が居た。
始めは枯れ木の覆う山の背景に同化して気付かなかったが、間違いなくそれは薄茶色の毛並みをした狐だった。
狐はビー玉のような黒い瞳で私の方を見つめたまま、全く身動きしなかった。もしかすると私が気付いていなかっただけで、狐はずっとあの対岸に居たのかもしれない。
「狐……」
思わず呟く。野生の狐を見たのは初めてだった。そもそも狐は夜行性だったような気がする。こんな明るい日中に行動するものなのか、私には解らなかった。
とりあえず狐に向かってゆっくりと手を伸ばしてみる。狐は一瞬ピクリと体を縮めて反応した後、ピョンと身を翻して雑木林の中に逃げ込んでしまった。
「……まあ、そうだな」
後に残された私は苦笑いする。警戒心の強い野生の狐を見ただけでも珍しい経験だ。この辺りをねぐらにしているのだろうか。狐は美しい黄金色の毛並みで、意外に大きな目をしていた。
まさか突然無防備な人間が現れるなど、狐の方も予期していなかったのだろう。さっきの狐も、どこかきょとんとした表情をしていた気がする。
思いがけない闖入者の登場に気分が解れた私は、岩場に腰を下ろしてコートから煙草を取り出す。見上げると、名も知らぬ鳥が羽をはばたかせて、色合いの薄くなった水色の空をゆっくりと旋回していた。
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